ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

食の受動態と能動態~成熟のためのRepresent~

浪人社長わしむ @washimkk65 といいます。

ツイッターでは多動症のごとくふるまっていますが、せっかくの機会なのでゆっくりとひとつのテーマについて考えてみた。

なので、日頃のツイッターのテイストとはだいぶ違います。

日頃のフォロワーの方にも初見の方にも楽しんで読んで、また、考えてもらえれば幸いです。

 

では、本題に。

最近、他人と食事をともにすることが増えた。


現在、31歳になったが、20代のころはほとんど一人飯だったように思う。
記憶にあるのは、牛丼屋、コンビニ弁当、たまに財布にお金が入っていればいく立ち食いステーキ屋など、
一人でいけるところばかりだ。

それが変わったのは、ここ数ヶ月のことだ。

 

■自己紹介、あるいは食の受動態
私は、2013年に大学院を卒業して、新卒枠でIT系の起業に入社した。
そのころは、まだ買い手市場で、働き改革以前のため労働条件は今よりだいぶ悪かった。

 

最初に入ったプロジェクトには3年ほどいたが、100時間以上の残業はザラだったし、出張先では予約していたホテルのベッドできちんと寝れないことがよくあった。

また、そのころは会社の近くにアパートを借りて、会社と家の往復運動をしていた。
自炊などする余裕もなく(一人暮らし最初は少ししていた)、コンビニ弁当やファストフードばかり食べていたように思う。

 

このころの食事はまったくの受動的で、
・朝起きたから朝飯を食べる
・12時になったから昼飯を食べる
・会社終わったから夕飯を食べる
という感じだった。

 

自分の意思は関係なく、何らかのトリガーがあってはじめて食事をする、
受動的な食事だった。

 

その後会社では順調に昇進し、4年目でプロジェクトリーダーになる。
ヒト・モノ・カネの管理を要領よくこなすことができず、それまでの過労の蓄積もあり神経を病み半年間休職した。

休職している間は、起き上がれるようになると、自炊をして意外とうまく安く料理を作れることを知った。

 

復職後、池袋駅の隣の要町駅にある「イベントバーエデン」という店に出入りするようになる。
そこでは、客がイベントとしてバーテンをやる変わった店で、手料理や手製のカクテルを飲んだりすることをするようになった。
バーテンに立つのはわたしより若い人が多く、その人たちと酒食をともにするうちに、
「もっと、若者と時間をとって食事したいな」
と思うようになり、「若者の話聞く会」というイベントをするようになった。

 

 

■食の能動態 ~良質なコミュニケーション~
若者の話聞く会では、まずはおっさん(奢る人)の募集をする。
おっさんが4人集まったら一人あたりの予算に応じて、店と集める若者の人数を決める。

 

たとえば、予算が2万円なら、4000円の店に設定して若者は、おっさん1人あたり4人集めるという具合だ。
若者はツイッターで集める。基本的に選り好みはせず、早いもの順や抽選などで選ぶが、あまりツイッターをやっていない人はどういう人かわかりづらいので弾くことはある。

そんな感じで、「おっさん活動」と称して若者に飯をおごって酒食をともにするというイベントをだいたい月に1回やっている。

 

その中で思ったことがあるので、それを本稿では書きたい。


飯を奢るというのは、不思議なのものでこちらの意識が変更される。
奢る、という能動的な意識的な行動をすることにより、
自分は奢る側=おっさんになる。
おっさんであることを能動的行動で引き出していることに気づくのだ。

 

おっさんであるという自認を引き出すための最小単位は、
「自分より年下に飯を奢ること」
である。
しかし、単純に飯を奢るだけだと、つまらない上下関係ができて、
集まりとしては面白くなくなる。
なので、奢ることへの対価として「若者から話を聞く」を設定するというふうにずらすことにより、
会がうまくいくことに気づいた。

 

それはつまりこういうことだと解釈している。
世間一般では、上司部下の関係であるような飯の奢りでは、
「俺の言うことを聞け」というようなマウントポジションになりやすい。
このように、カネや立場を利用して自分をおっさんと辞任していく行動は、
「好ましくない成熟」だと定義する。
※なぜ、好ましくないかは私の価値観だが、おおむね合意を得られると思っている。
それでは、「好ましい成熟」とはなにか?

 

もっというと、「良いコミュニケーション」とはなにか?

コミュニケーションの良し悪しは、
「相手のしてほしいことをすること」態度にほかならないと思う。

これは、ごますりや忖度のようなものとは違う。
ゴマすりや忖度は、相手の「立場」に対する貢献意識であり、相手そのものは見ていない。
コミュニケーション不全によく見られる落とし穴である。
その当人同士の問題ならまだしも、財務省公文書偽造のような大きな問題を引き起こす可能性すらある重大な問題だ。
これは、社会的生物である人間のDNAレベルで刷り込まれたバグのようなものだと私は思っている。
では、「相手そのもの」を見てコミュニケーションをとるにはどのようにすればよいか?

それは、「聴くこと」にあると私は考えている。
よく話も聴かずに「相手が~を望んでいるハズ」と思って行動すると、たいてい失敗する。
なぜなら、「わたしにとってのあなた」に対する「立場」に対する貢献でしかなく、また先程の落とし穴に落ちてしまう。
相手の言うことを相手の立場になって聴く、という傾聴の姿勢が落とし穴の回避方法だ。

ここで、飯を奢ることに立ち返る。
・飯を奢ること=いいこと
・相手の話を聴くこと=いいこと
なので、「若者の話を聴いて奢る」は相手にとっていいことでしかない。

実際に、自分だけでなく周りの参加者のおっさんと若者を見ていると、
良いコミュニケーションがとれているように見える。
若者の話に共感しながら、自分たちの時代にはない価値観に気づいて感心の声を上げる。
そのような場面が、「若者の話聞く会」には溢れている。

さらに、若者にとって良かったか?というという問にはほぼ首肯できる。
第三回の若者の話聞く会は、普通に公に募集したら、第二回の参加者(わたしのツイッターフォロワーなので)が8割方埋まった。
※RTで拡散する前に埋まったということ。

 

■おっさん活動の可能性 ~成熟の問題~
かくして、「飯を奢って若者の話を聴く」という能動的な食によって、
良いコミュニケーションを獲得することができた。
これでは飽き足らず、次の場所にいこう。

人間としての成熟の問題だ。
私たちは好むと好まざるにかかわらず年を取る。
ただ加齢をすることと、成熟するということは別問題だ。
私は多くの成熟していない年寄りを見てきた(これについては、具体例を避ける。別の問題としてまた議論したい)
「好ましい成熟」とはなにか?ということだ。

おっさん活動という、若者に飯やモノを奢る活動を通して仮説がある。
それは、「時間をかけて物事を行う」ということだ。
簡単なようだが、現代においてそれはとてもむずかしい。

 

ゲームを例にとると、時間を描けて経験値をためてゲットするアイテムが課金をすることにより簡単に手に入るようになる。
余暇における時間の価値が、非常に高まっているともいえるし、お金の価値が弱まっているともいえると思う。
とにかく、私達は時間をかけないで物事を行うことを訓練されている。

特に、人と一緒に「酒食をともにする」という時間のかかることはしなくなる。
いや、飲み会は毎週いっているよ!という人もいるかもしれないが、
そういう人には、初めて合う人と飲み会にいった回数はここ半年で何回あっただろうかと聞いたら、
その数はかなり少ないのではないかと思う。

ゲームを例にすると、ポーカー用語で「Represant」という方法論がある。

Represent
ある特定のhand(役)になっていると見せかけて(あるいは本物の場合も含めて)bet(ベット)することをreprsent(リプリゼント)と呼ぶ。(以下略)
(参照:weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/Represent)

 

 

私達が、食事できる回数は1日3回として365日。1年で1000回強しかない。
その食事をだれとどのように過ごすかのパターンは限られている。
学生だったら、学生の仕方で学生なりの人脈で飯を食うし、
サラリーマンだったら、サラリーマンの経済感覚の範囲で、付き合いの範囲で飯を食う。
そこからの逸脱をしてもいいのではないかと思う。

逸脱するためには、自分の手札から想像できる役ではなく、なりたい役・なるべき役を自らRepresent(そうであると振る舞う)することだ。

未来は誰にもはっきりとわからない。だから自分自信の役を自分で表現していこう。

 

おっさんでなくても自分を「おっさん」というhand(役)になっていると見せかけて、
自分の時間をbetする。
若者とは自認してなくても自分を「若者」という役になっていると見せかけて、
自分の時間をbetする。

 

Representすることによって、立ち上がる時間共有の場。
そこには新しく新鮮な手触りの時間が流れている。


これは、私が実際にやってきたからわかることだ。

どんな食事をして、どんな時間を過ごしても構わない。
我々には時間が限られているが、

早く成熟することにより、人生をより豊かにすることが可能だ。

 

さあ、Representしよう。
Make Game する時間だ。

 

こんにちは、Sです。大阪でインキャしてます。

薬のケイスケ・ホンダ(=プロフェッショナル)になることを目指して日々勉学に禿んでいます。

 

お題は飯なので飯に関すること書いていきたいと思います。

私にとっての飯とは、、、ずばり!!  生き甲斐です!!

インキャを極めている私は、大学では友達がおらず、女の子とも話せていません。毎日毎日同じような内容の薬学ガイダンスを聞いて、食堂では同回の男女が楽しそうに会話しているのを心の中で中指を立てながら見ています。そんな毎日です。私の思い描いていた大学生活とは程遠い、、、 はあ、もう生きてく気力が、、、

そんな時に私に生きる活力を与えてくれたのが食事でした。

うまいものを食べると幸せな気持ちになり嫌なことも忘れられます。次はこれを食べたい!あれが食べたい!なんて考えるようになり、自分で料理もしたい!と思い今ではほぼ毎日料理しています。自分で作る飯はめちゃんこおいしいです。学校でも今日は何を食べよう、何を作ろうと考えています。同回生がOOちゃんを食った、OO君を食ったと話しているのを尻目に、私は「今日は餃子!豚丼!よーしおいしくいただいちゃうゾ」こんな健全な話ありますか?

世のウェイウェイ大学生!!俺の飯食わせてやるから!!だから、、、

おすそ分けしてくれません??

食文化のなさと消費主義が交差するとこうなるよね

はじめまして、けむりだまと申します。この度参加させていただきまして以下略。山なしオチなし短い文章になりますがよろしくです。

みなさま、ビュッフェってものをご存知なのでしょうか。日本語では食べ放題で、日本ではバイキングとも呼ばれるらしいです。いろいろな料理が置いてて、客さんが自分で取りに行くあれ。

我が故郷となる香港では、やや高級のホテルではそこそこな値段でランチタイムやディナータイムでこういうのをやります。そして大体の人は「値段以上の分を食べないと」という思考で結構食べ物を取りに行くという感じです。
香港は自分の特別な料理が少ない分、いろんな国からの料理が食える。香港のビュッフェはまさにその体現のように寿司とかローストビーフとか色々置いてあります。(そもそもビュッフェは香港の文化じゃないですが)

ただ
・食べたい料理が少ないからすぐ終わったら「もう食べないの?」と聞かれて辛い
・何回も取りに行くのがめんどくさい
・料理の統一性が低いから人によって中盤から違和感が出る
・値段以上の分を食べるために無理する
・「燃やせるゴミという概念のない所で」「マスコミで話題になるほどの」食べ残しが出る

特有な食文化が死んでる、そして見栄え重視その上に払った金以上の価値を求めるといった消費主義を表してる人間性が交差するとこういう人によって行くだけで辛くなったり明らかに大量の浪費が出たり、そういう飲食スタイルが発生するよーっていうお話でした。

故郷や住んでる所に特有な料理や食文化がある人は大事にしようね。人に自分の故郷を紹介する時、なんの料理も口に出せないのはすごく辛いですよ。ちゃんちゃん。

食事を無から思い出へ

 みなさま、初めまして。関東のとある私立大学薬学部薬学科(6年制)2年生のやくうつと申します。メンタルヘルスをいわしつつもなんとか大学に進学し、日々試験、レポート、己のココロとのアツい戦いを繰り広げたり繰り広げなかったりしながら暮らしております。文章を書くという行為に慣れてないので僕がなんとなく考えていることをだらだらと書き下すことになるだろうと思います。よろしくおねがいします。

 

 気心の知れた仲間との食事は楽しいですか?僕は楽しいです。険悪な雰囲気の中、生産性があるのかどうかも怪しいミーティングをしながらの食事、楽しいですか?僕はつらいです。高校時代に文化系の部活に所属していたとき、練習時間を極力無駄にしないために昼食の時間に会議をしようとなったことがあったのですが、会議はまとまらず対立が深まり食事も十分にとれなくなるとまあ、散々なことになってしまいました。これには昼休憩で解放されないことのストレスというのも大きいとは思うのですが、僕は食事という行為自体に感情に対する作用があったのではないか、ということを考えてしまいます。

 すこし考えてみると、食事中ってそのときの感情が増幅、あるいは表面化されやすいような気がします。冒頭にも書いたとおり、楽しい仲間との食事は(たとえ会話がなくとも)よりたのしいし、辛いときの食事はよりつらい。小さい頃楽しかったことを家族に報告しながら食べるごはん。父親の帰りが遅くなり、いつもよりもすこし寂しい雰囲気で食べるごはん。仕事で嫌なことがあったのか、八つ当たりのように叱られながら食べるごはん。お祝いのために注文した出前や普段は行かないゴージャスな外食。大学の友人と深夜に貪る家系ラーメン。レジャー施設やスポーツ観戦での軽食はまた独特の趣があったなあ。と、ほんの少し記憶を廻すだけでもたくさんの思い出がやってきました。食事は思い出と結びついて記憶されやすいのだと思います。どうにもつらくて眠れない夜、暗い中ひとり無言でカップ麺をすすっていたら涙がこぼれてきたという経験はありませんか?(僕はあります)

 ずらずらと自分語りを垂れ流していったい何がいいたいのかというと、食事という行為をもうすこし大切にしてみませんかということです。食欲は最も満たすのがラクな生理的欲求であり、またその気になればストレスを燃料に際限なく貪りただ時間と健康を浪費することもできます。ただ僕はせっかくなら食事を感情のゴミ処理に矮小化するのではなく、もうすこし文化的に食事を楽しみたいと思っています。忙しくて趣味や娯楽にリソースを割くことができなくても、食事は摂れるはずですので。

 大変にひどい話で恐縮ですが、(向精神作用をもつ)薬物を嗜む際には本人の主観的な気分、思考である「セット」と周囲の環境である「セッティング」という概念が重要だと聞いたことがあります。これはある程度食事にも当てはまるかもと思うんですよね。(ドラッグを推奨するわけではありませんよ!ダメ。ゼッタイ。

 環境のセッティングはセットに大きな影響を与えます。たとえばサバの水煮缶、開けてそのまま食べるには少しさみしいですよね(勿論、だがそれがいい、という方は全く問題ありません!)。しかし、これをごはんに載せ醤油を加え、ショウガやネギ、かつお節で飾り付け、最後にごま油かラー油を少々かけてみたらどうでしょうか!テンション上がってきませんか?これが文化です(?)。ちょっと面倒でも、どーでもいいひと手間を加えることであなただけのオリジナルな食事を楽しめます。そしてこれは調理に限ったことではなく、好きな音楽をかけたり(歌ったり)、照明を消してろうそくの光のみで食べてみたり、またあえて全裸で食事に挑むなど、セッティングの幅は無限大です。

 とはいえ、現実世界に干渉するセッティングはどうしても手間がかかるので忙しかったり限界が近い人間には難しいと思うので、セットを整える方向を目指します。しかし自分の精神を直接操作するというのはなかなかできない、というかできたら苦労しませんよね。そこで行動療法に頼りましょう。あいさつです。

 「いただきます」「ごちそうさまでした」という言葉、僕はこれを食事を提供してくれた人間や食物となってくれた生物、自然の恵みへの感謝を込めたものであると教わりました。しかし、これは食事というナニカに挑む自分のスイッチを切り替える一種の儀式でもあるとも思っています。なんにも意欲が出ない、もう疲れた、人生クソくらえ、そんなときでも一言(できれば声に出して)唱えてみましょう!食事の内容は関係ありません。元気よく発声する必要もないです。それだけで、目の前の有機物は食物へと変化します。無理に楽しんで食べることもないですよ。ただ僕は、食事をただの栄養摂取、食欲充足手段とするにはあまりにももったいないなあと思うのです。いつもの食事でも意識してあいさつをするだけで、そこに文化が生まれ後の思い出として残りやすいのだと思っています。

 そして、セッティングで書いた食物のグレードアップはなにも現実の事象に限ったことではありません。人間の想像力は無限大です。サイゼリヤは高級イタリアン、カロリーメイト宇宙食、カップ焼きそばに海の家を感じながら毎日の食卓をぜひとも彩っていきましょう!

 

 ……と、まあ、ここまでいったい誰に向けて何を言っているのかわからないような文章を書いてしまいました(要は、毎日のルーチンをどうせならおもしろくしたいよね!ということです)。ファミレスでひたすらアイスティーを飲んでいたら形になった気持ちの垂れ流しですが、もしここまで付き合って頂いた方がいらっしゃったのならばとてもうれしいです。迫り来る試験への絶望を感じつつここに感謝の意を表します。

食事と記憶

はじめまして、そんとぷと申します。単位が湾に沈んでいる某大学の外国語学部で単位回収に追われる日々を送っています。


最近コンビニの棚に様々なチョコミント商品が陳列されている。今まで全く気が付かなかった。今年だけなのかと思ったらそうでもない様子。チョコミントってこんなに幅を利かせている食べ物なのか…。私の中でのチョコミントのイメージは、ごく一部の人が好む変わり種という感じだった。だからコンビニに行くたびにチョコミント勢力の大きさにびっくりしている。

こんな言いようだとチョコミン党の方々から叱られるかもしれないが、私もチョコミン党である。ただしそれを自覚したのはつい最近で、それまではチョコミントに対する興味も全くなかった。なぜ急にチョコミントにはまったかというと自分の中でとてもスッキリした出来事があったからだ(チョコミントだけに)。


小学校3~4年生くらいのある休日、家族でイオンモールに出かけた(有名な話だが田舎民にとってイオンモールはお出かけの定番スポットだ)。3時くらいにおやつとしてサーティワンアイスクリームを親が買ってくれた。その時私が頼んだフレーバーは青いような緑のような色の謎のアイスだった。私は変な味だけど口の中がスースーして面白いな〜と思っていた。

それ以降そのアイスを食べることもなく私は大学2年生になった。空きコマにダラダラと予習をしていた友達と私は気分転換としてコンビニにおやつを買いに行った。そこで友達が買ったのがチョコミントアイス。それにつられた私もチョコミントはどんな味なのかと思い買ってみた。一口食べてみて衝撃を受けた。

あの時のあいつと同じ味だ…!!

10年くらい前のちょっとした引っかかりが解けた瞬間だった。なるほどあれはチョコミントという食べ物だったのか。それ以来チョコミントを見かけるとつい買ってしまうようになった。もちろん味が好きというのもあるが、チョコミント、特にチョコミントアイスを食べていると当時の記憶がちょっとだけ思い出されるからだ。そんなこんなで私は急激にチョコミントにはまりだした。


感覚と記憶はリンクしている。音楽を聴いたり景色を見たりするだけで記憶が蘇ることがある。私の場合チョコミントがそれなのだ。家族でお出かけなんてもうほとんどしないし出来ない年齢になってしまった。でもチョコミントアイスを食べている間だけは、家族でお出かけした楽しさも味わえる気がする。

味覚は五感の中でも記憶と繋がりやすいのではないかと思う。食事は家族や友達など自分と関係の深い人とすることが多く、印象に残りやすいからだ。味噌汁はおふくろの味と言われるように以前に食べたものを再び食べると当時の思い出を思い出させてくれる。もちろん良い思い出ばかりではないと思う。しかし私たちは食べ物によって思い出を辿ることができる。


…何が言いたいのかよく分からなくなってしまった。要はチョコミントはいいぞ、皆チョコミント食べようということである。

『食』と『戦』

はじめまして、ちょいなみと申します。『陸の孤島』と呼ばれた辺鄙な立地の大学で、哲学などと言うものを日夜考えたり考えなかったりしていますが、お誘い頂いたので頑張って書いてみたいと思います。

今回のテーマは『食』だとか。何にすっぺ~とファミレスで一人考えてふと思いつく。そうだ、私がいつも他人に言っているクソ議論があるではないか。それについて書いておこう。そう思い立って、パソコンを立ち上げる。時刻は既に23時。明日は一限、修羅の授業。そう、この企画に蹴りをつけなければいけない。そう『戦』なのだ。

 

……戦?

 

ここでさきほどの私のクソみたいな持論の話をしよう。『戦』の話だ。私はいつも得意げにこういうのだ。

「歴史における戦や内乱の原因は決まって“金”か、“女”か、“食”か……それから、“信仰”だけだよね」

友人に指摘されて『信仰』を最近足したけれど、私のこの基本的な歴史に対する偏見は中学二年生の時からぶれないままだ。そう、戦の始まりはいたってシンプルだ。自由の為、平和の為。かっこいい言葉を使いつつも、その発端を生み出すのは『金』『女』『食』『信仰』なのだ!(明らかに過激)(ちなみに私は本当はジェンダー過激派なので『女』発言には違和を自分自身感じているが、それをうまく訂正する言葉が思いつかない。誰か代替案くださいませ)

で、今日のテーマは『食』だよね。はい。食と戦について3パターンほどまとめてみたいと思います。ちなみにこれは言い訳ですが、私は哲学徒であり史学徒ではないのでご了承をば。

 

   飢饉と一揆

飢饉によって作物は育たない。それだというのに、上は厳しく取り立てる(自分が生きられなくなっちゃうからね)。その影響で進む百姓一揆。百姓の~?ちょっとイイトコ見てみたい!ハイ、一揆一揆!(失礼しました)『食』と戦の関係と聞いて、やはり皆さんの中ではこのようなものが思いつくのではないのでしょうか?

これが「食糧難による戦」の例。逆に他にはどのようなパターンがあるだろうか?

 

   宗教と反乱

一番いい例は『シパーヒーの乱』かとおもう。1857年のインドでの反乱だ。簡単に説明すると、ヒンドゥー教徒イスラーム教徒がいる傭兵集団に支給された銃の火薬の薬包に、乾燥防止のために牛脂・豚脂が使用されていた。彼らはそれを口で噛み切って使ってたわけだけどそれを知って宗教上の理由で激怒。→反乱。の流れである。これはさっきの“信仰”も絡んでくることだよね

  これが『宗教上の食の制限による戦』の例。最後は?

   きのことたけのこ

戦に貴賤なし。そもそも戦に貴いものなんてあるのか?皆さんご存知「きのこ・たけのこ戦争」これもなんやかんやで食が原因だ。食が足りないから起きたわけじゃなくて、食の種類が飽和するくらいに増えたから生じてしまったものだけど。こしあんつぶあんも根深いよね。好きなものは好き。他人が好きなものはそれでいいじゃない。きのこ好きな人が少ないからって馬鹿にしちゃだめだよ(きのこの山派並感)

「食の好みに関する戦」これもきっとあるね。

 

 さて、なんやかんやでまとめてみたけどどうだろう?足りないだけじゃなくて飽和してても、何かと理由をつけてこっちがいいだとかあっちがいいだとか争うんだから、キリがないな。食べても食べなくても争うなんて、人間ってだめだめなのかも。と食について簡単に、脳死で少しまとめてみましたとさ。

『食』についての記事を書くのも、『食』にまつわることだからきっと戦だよね。うん、それでいいじゃない()。

思ったより早くかけたから、ちょっとデザート食べて帰ります。ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

私の料理

 初めまして、ハルトマンと申します。

 

 私は池袋のはずれにある店で店番をしていたことがあります。その店は誰が来るか検討もつかず、来る人間の素性は知れず、ただ顔色が悪いか目が据わった人間がふらっと来ては喋りたいことを喋って帰る、そんなお店でした。最初の頃はただジュースや酒、お菓子を売るだけの日々でしたがある日ふと思いました。

 「この人たちちゃんと食ってるのか?」

 「つまみも無いのに酒売るとか無理だろ」

 頭の中で福祉と商売が同時にポップアップしたのです。

 

 食わせるところから始めよう。当時店に出入りしていた店番側も客側もどっちも食というものが欠け落ちていた。とりあえず何から始めようという段になって私はカレーを作り始めた。

 カレーならば鍋一つあれば都合10人前は作れる計算。客も10人は来ないし運営側と客側で食べてちょうど良い量となる。近所のスーパーで野菜と牛肉を買い適当にやって鍋で煮込んで一杯500円。ルーは当時よく来ていたムスリム層を考慮してラードなど豚系を使用していない商品を使っていた。これが飛ぶように売れた。まさかお代わりまで入るとは思わず即日完売。腹を満たせてビールが売れる。福祉の商売の両立はカレー鍋の中で完成した。

 

 カレーを作り始めてから少し経った頃のこと。友達と2人で高円寺を散歩していた時、歩くのに疲れた我々は昼からスパークリングワインを飲むことにした。ふとメニューを見るとイギリス名物フィッシュ&チップスの文字が。噂ではまずいらしいが食べたことはない。友達と目を合わせ2人で腹をくくるとこの揚げ物の山を注文した。

 美味い。これは酒によく合う。そりゃそうだ世の中串カツ揚げ物メインの飲み屋がいくらあるよ。それが芋となり白身魚となっただけじゃないか、不味い道理がどこにある。よし、作ろう。

 近所の業務用スーパーへ仕入れに走り野蛮な量の冷凍のポテトと白身魚のフライを購入。店で揚げてみるとこれが中々美味い。味付けは家で実験していた極秘の味。ポテトを山盛り盛って一皿500円。売れた。飛ぶように売れた。カレーと違い野菜とか健康面は一切検討してないがとりあえず山盛りのポテトが胃袋を満たす幸福がある。そして人は幸福になると缶ビールを頼む真理がある。

 

 カレーとフィッシュ&チップスは私に福祉と商売の両立を教えてくれた。まとめると飢えた人間は注文をしない。しかし飢えた人間にカレーや揚げ物の香りをきかせるとまず食べ物から注文する。これをサクッと出して食べさせると幸せがオーバーフローして目の前の酒に目が行く。満腹による多幸感はある種のバグに近く手持ち残金が危なくても缶ビールを注文させる。

 商売が回れば次にまた福祉をできることも学んだ。福祉を商売に変換し、商売から得られた利益を福祉に使う。幸福は金を産み、金は幸福を産む。

 

 もし決断するような仕事になったら決して飢えてはいけない。飢えから幸福になると多幸感バグを起こして致命的な決断ミスをすることになるだろう。

 食べろ。何はともかく食べろ。食べている間は間違いはない。