ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

カツ丼を契機とした人の好き嫌いについて

  初めまして(?)、メガネをかけた生物氏からの誘いでこの企画に参加させて頂く者です。(すみませんこれ以下常体で書かせて頂きます→)彼とは高校同期の関係にあり、高校時は彼とはそこそこに仲は良かったものの、(多分頭の良い奴だなぁコイツの話は高尚でついていけないなぁ。)くらいにしか思っていなかった。

 だが最近は、こんなスゲえ()奴が俺と同じ高校に通っていたのかと思うと大変感慨深い。一回彼が東京に来た時などに議論をすることがあったが、雲の上の存在かのように敬意を払っていた彼と対等に渡り合って意見交換が出来たり、お互いに感得したことを呟いたりできて、やはり、彼という存在と関わりを持てたのは貴重だったと思い返しながら今この前文を打っている。 彼はスゲえ人物だ、アクティブすぎる(小並)。

 

 

  彼との関係に終始したので自己紹介も雑多に。

 私は現在東京外大の仏語科に通う者である(ツイ廃でもある※大学垢:@OmoriNoMainaka、より思索的内容を含むサブ垢:@Omori_no_subaka)。

 受験時の大学決めでは、(私は有難いことに、親のおかげで英語が比較的できる脳みそを育成できたので)自分のキャパで狙える偏差値の高く就職実績もある大学を狙ってこう、その方がきっと企業就職を考える上でも有利だ!そうに決まっておる社会を生きる俺らは金が大事なんじゃ!ということで東京外大を狙った。勿論フランスにも興味はあったのだけれど(簡単に言うと幼少期にフランス行ってたりフランス史好きだったり高校時の精神錯綜期にデカルト哲学を軽~く知って勇気付けられたりしたこと)、一番の理由はそれだった気がする。

 ただ、私は紆余曲折あって再び哲学に非常に関心を寄せるようになり、しかし満足に哲学することができない(具体的には哲学に当たる授業やゼミがほぼない、言語第一の大学の嵯峨か哲学に関心を寄せる人が私の知る限りほぼいない、そもそも主専攻である仏語の負荷が大きすぎて哲学に時間を割けない)現状で悶々とした学生生活を送っている。勉強会だの研究発表会だの筑波の学生さんが開催している討論会だのに参加したいが、知識量の少ない私にとっては敷居が高いし割く時間も十分にないという始末である。その点ではメガネをかけた生物氏と彼の所属する大学や彼の本来したいこととの関係にも似ているのかもしれない、そういう意味でも彼の活動には大変共感でき好意的である。

 そして、就職の話も示したが、とにかく哲学研究に没頭したい、これこそが私のライフワークにふさわしい、特に余剰のお金は求めない、そもそも俺は一般企業就職では満足しないだろうという思いから、留年することなくこの大学を無事卒業し、卒業後は哲学を専攻できる大学院(東大院が一番の希望だが果たしてどうなることやら...)に入り直したいというのが理想の将来像である。就職を考えて入った学び舎で就職なぞしないという決断をしたのは皮肉なものである。現在は、”まぁ仏語できたら哲学もっと楽しめるじゃろ、ベルクソンほんとすこw”くらいのモチベで大学に通う毎日である。

 以下、彼から与えられたテーマである「食」(をかなり拡大解釈して自分が書きたいことを表した)文章が続く。保険をかける訳ではないが、当然哲学的内容を含み、これは上述の背景により、稚拙な洞察で引用も不適切だろう。またブログなぞに打ち込むのは滅多にない機会なので非常に読みにくいだろう。そして何より時間を潤沢に割けていないので大満足の文章とはいかなくなろう。しかしこれは私が哲学を表すことのでき、私の哲学を発展させられる貴重な機会なので気にせず緊張せずやや砕けた形式で書いてゆく(暖かい目で見て欲しい...)

 

 

  テーマとしては主に4つある。

1:「食」から好嫌への考察へ至った動機と何故好嫌を明らかにしようと思ったか。そして概念と好嫌との関係について。

2:そもそも好嫌は、全て経験的事実に集約できるのか、それとも非経験的なものなのか。

3:現状好嫌とはどのような存在だと言えるか。そして想起できないものについての好嫌についてはどうか。

4:まとめと更なる疑問。

 これを通じて私は、人の”好嫌”、そして関連して美について私が限られた中で今まで読んできた本を踏まえつつ、私の現状で迫れる限り迫ってみたい。

 

 

 1:「食」から好嫌への考察へ至った動機と何故好嫌を明らかにしようと思ったか。そして概念と好嫌との関係について。

 私が、かのメガネ氏から「食について何か書いてみてくれ、拡大解釈もしてくれて良いよー」と言われたとき、私は真っ先に「カツ丼」を思い浮かべた。アツアツのご飯の上にジューシーなカツが乗っかり、それを半熟卵でとじたアレである。ダシと上手く絡み合い、肉とコロモとコメが絶妙な調和を生むアレである。私の好物である。外食をすればまずメニューを通覧し、カツ丼があれば必ず注文するくらいカツ丼は私の好物である。 

 おや、「食」について書けというからにはより社会的か理系チックな話を求められているのだろう、これはマズい。否、このままカツ丼の魅力について延々と語っても良いだろう。いやしかし「ワカモノ思想」という肩書で参加しているのに、その内実がグルメリポートではちょっとなぁ,,,などと思っていると、何故私は「食」という言葉を見ただけで”好きな”食べ物であるカツ丼を即座に思い浮かべたのだろうか、と思い当たった。哲学徒たる私はこうした問題に以前から興味があったように思う(興味があっただけで全然マトモな文献も参照出来ていないのだが)。

 そんなわけで、この企画では、好嫌一般について考えることを目的とし、手始めに「食」という概念を知覚しただけで好物を思い浮かべたのは普遍性の高いことなのかについて目を向けることにした。

 しかし、これは困難を要することであった。何故なら我々は、例えば「好きなもの」について考えることはできても「好きであること」について考えることは容易ではなく、これは別レベルの問いだからである。これはソクラテスプラトンアリストテレス、現代的思想家であってもハイデガーなどが、存在とは何かという問題を投げかける際に参照した問いに近い。例えばこれ。

『というのも、あなたがたが「ある」という表現を使うとき、もともと何を思念しているかを、明らかにあなたがたはずっと以前から熟知している。しかしながらわれわれは確かにかつてはそれを理解していると信じていたが、今や我々は困惑に陥っている』(プラトンソピステスより)。

 そうではあるが、私が納得する限りこの困難な問題に尚理性的に取り組んでみたかった(右のような例もある。『しかし、アナクサゴラスただひとりは、理性は作用を受けないものであり、他のどんなものとも共通性をもたないと主張する』「アリストテレス、心とは何か、桑子敏雄訳、岩波文庫p33より」)。何故なら好嫌は、しばしば我々を惑わせるからである。例えば私が節度なくカツ丼ばかり食っていれば不健康になり心身に支障をきたすだろうし、経済的負担もある。逆に嫌いな食べ物でも、時と場合によっては食べなくてはならない。或いは好嫌に基づく議論はあまり生産性あるものではないし(私が敬意を払う哲学などはそのきらいはあるが...笑)、職場や大学など、高度に社会的な場面で好嫌に基づいて人々と接していて起こる衝突も多い。勿論節度ある対応、ニュートラルな言説を心掛けよなどはよく言われていることであるものの、しかしそれが本質的に可能であるのかについては疑問点が残るし、どの程度好嫌を抑えるべきかについては画一的な判断が大変難しいことと思う。やはりこの問題は、食に限らず、社会を生きる我々にとって、ひいてはあらゆる学問にとっても解決或いは調停の難しい問題であり、是非とも解決せねばならぬと感じるのだ。

 そこでまず、この問題に取り組むに際して直接の経緯となった、「概念により、その概念についての好嫌は真っ先にイメージできるのか」について考えることとした。結論から言うとこれは間違いであったが、次項へのヒントとはなる考察であった。”概念という主語が、具体例たる好物という術語を含んでいるか”といういかにもライプニッツ的な発想の下、思考実験を行った。例えば 食⇒カツ丼 には成功した。 飲み物⇒コカ・コーラ にも成功した(私の好きな飲料はコカ・コーラだと思っている)。しかし、 マクドナルド⇒ビッグマック であった(私はビッグマックは特に好きではないし好きなマクドナルドのメニューは特にない)。そして 母親⇒母子健康手帳に載ってそうな母親のイラスト であった(私の一番好意を寄せる母親は、私の母親である筈だ)し、 スポーツ⇒サッカー であった(私はサッカーはあまり好きでないし好きなスポーツは陸上競技である。ちなみに私は陸上競技部に所属している。)この思考実験からも分かる通り、一番優先されるイメージが好きな物(或いは嫌いな物)である場合はあまり多くない。

 しかし、好きなものというのは、予め決めるタイミングがあるからして決まるのではないかという仮定に成功した。 例えば、初対面の人に自己アピールをする際や、英会話の練習などで好きな食べ物を言わされる際、我々は好物について決めておくことがある。こうしたことがキーとなって我々の好嫌は決まるのではないかと自ずと考えたのである。

 

 

 2:そもそも好嫌は、全て経験的事実に集約できるのか、それとも非経験的(=純粋)なものなのか。

 1にて、好嫌は経験的なものなのではないか、という仮説を立てた。ここではこれについて私が考えたことを記述してゆく。例えば、熱い寒い臭い眩しいのような感覚は非経験的で本能的に我々に備わっていると言っても特に問題はないように思う。他の動物は恐らくこのような感覚を持っているからというのもよい例かもしれない。ところが、好嫌については、非経験的であると定義づけることは思いつく限りかなり難しいようである。例えば、他の動物は人間が抱くような、包括的な好嫌があるのかが分からないし(勿論他の動物であっても、上手いマズいあのメスに惹かれるなどと思うかもしれないがこれらが、我々の意味するところの好嫌であるのかはよく分からない)、人間の中でも経験を持たなそうな赤ん坊や認知症患者の方が、好き嫌いに対してどう考えるかを見ようとしても、果たして彼らが本当に経験を持たないのかが怪しい(例えば、赤ん坊なら母親の中にいる時から考えると何かしらを経験しているのかもしれないし、完全に何もかも忘れた認知症患者というのも聞いたことが無い)。好嫌が経験的である可能性についてはまだ提示できるものの(好嫌のような価値が経験的であることについては、新曜社出版の「ワードマップ現代現象学」の第6章の1『価値と価値判断』などに興味深い言説が或る、あくまで経験から哲学する現象学特有の考え方が知られよう)、非経験的であることの代表例については提示が困難だろう、我々人間が非経験的である状態を現実に想定することが困難であるという理由によって。

 以上から分かるように、好嫌が経験的であるか、非経験的であるかについてはよく分からなかった。しかし、好嫌、特に美や欲について、経験的に考察を行うとこれは美学や倫理学、或いは現象学の問いになってしまう。美とは何か好嫌とは何かということについてあくまで非経験的に考えると、これは存在者の存在を探求する学である、形而上学の問いに帰結する(と私の大学で開講されている数少ない哲学の授業で教わった)。従って、以降の好嫌の試論の中で経験的結論に達すれば前者らの学、後者に達すれば形而上学的問いと思って頂きたい。

 

 

 3:現状好嫌とはどのような存在だと言えるか。そして想起できないものについての好嫌についてはどうか

 ここからが本番である(笑)。私の考えた好嫌の定義の色々について、そして時間の制約上、最終的に行き着いた有力筋を順に紹介したい。まず、その言葉の意味上、「好き=ポジティブな存在」、「嫌い=ネガティブな存在」と仮定した。しかしそれはすぐに画一的定義ではないと分かった。例を出せば早い。私は哲学的難問が大好きだ。或いは、近年ではピカソの絵やシュールレアリスム、数分間演奏のない曲といった、ポジティブとは程遠い作品が持て囃され、好まれることが多い。この辺りでこれら仮定は間違いと理解される。

 次に、「好き」の代表例たる「美しい」に照準を絞って、次第に好嫌についても分析をしてゆくことにした。 私なりに見聞き読みしたことをまとめると、「美しい」とは、”希少であること、完全であること、そしてこれら2つの総合”の3パターンがあるように思う。

 「希少であること」というのは文字通りである、経験回数や時間が少ない、短いということである(これについて、私の信頼できる知り合いが、美人という定義は希少性から生じるのではないかというテーマで何らかの課題論文を仕上げており、不特定多数にアンケートをとったり、日本人と外国人との美人の感覚の違いに着目するなどしてなんか面白いことをしていた)。

 これに対して、「完全であること」というのはプラトンのいうイデアのようなものだと思っている(これについては”プラトン イデア”とかでググれば大体言いたいことは分かってくれると思う)。しかしこれだと、完全であることがどのようにあるのかについては仮定がついたものの、完全であるとはどのようなことか、ということへの分析が不十分である。例えばハイデガーは、現象学的芸術論として、『芸術作品の根源』(1950年。邦訳:平凡社、2008年)にて、美学並びに芸術論の本質として、「真理が作品内に立ち現れること」という点を挙げていたようだ。彼によれば完全であることを真理であることと換言して考えても良さそうだが、真理とは何かと考えてもかなり難しい。

 そもそも、このように3パターンに類型せずとも、「美しい=〇〇である」と言えても良いのではないか。これに関する私の知り得る記述はないかと考えた。ここで私は、ベルクソンが好きなのでベルクソンに良い記述があっただろうかと探し求めた。彼の主著、『時間と自由』(本当はちくま学芸文庫版の「意識に直接与えられた内の試論」の方が良いらしいが)にこのような記述があった。

 『だから、優美さの感情のなかに一種の肉体的共感が芽生えることにもなるが、さらにこの共感の魅力を分析してみれば、私たちがその共感をそれ自体として好むのはそれと精神的共感との類似性によっているのだということが分かるだろう。前者は後者の観念を巧みに暗示しているのである。』(「時間と自由」、岩波文庫、中村文郎訳、p25)

 引用するところがあまり適当でない感があるが、とりあえず彼は、美しいということを、何かしらの共感と考えていたようだ。共感ということは、美しさは主観的でないのだし、常に他者を考慮に入れているような意味合いである、文字通りの意味とすれば(これは、例えば現象学的に言うところの間主観性であったり、レヴィナスの他者についての形而上学でも似たような解釈がイケそうな感じはある)。ともあれ、ここまでの流れを適切に信頼するならば、美しさ、或いは根本のテーマであった好嫌についても、他者との関係で説明されるのではないかというところまで行き着いた。確かに近年シュールレアリスム的絵画が流行ったことからも、時代や社会の潮流というか、そうした他者からの影響で好嫌が決まるということは有り得るように思う。ここまでが、時間と参照文献の制約上、私が思索の根を伸ばすことができた限界である...。

 

 4:まとめと更なる疑問、そして反省

 以上によって、私は、最終的には、人の好き嫌いについては、或る種の共感ではないかということに行き着いた、行き着いたとは言えども、批判的ではないし引用のタイミングが滅茶苦茶で恣意的である。しかし、共感だとすれば、我々は、我々の好嫌に関して、最早自己のみでの解決やコントロール不能ということになる。これは興味深い視点である。例えば、他の方々は真っ当に「食」について何かしらの意見を書いてくれることと思うが、これら意見の多くも、常に他者からのそれとして共感の審議対象であるだろうし、我々がいかに(幾ら自分ひとりでの考えと思っていても)他者に影響されて生きているかという嘆かわしい問いにもつながってこよう。その上で我々は「食」をも含めた他なるものと如何に向き合うかについて今以上に慎重になるべきではなかろうか。

 更なる疑問も置いておく。好嫌とは共感によるとして、或いは希少性や真理への親和性だとして、本質的にいつでも想起することのできない、匂いや音、触覚についてはどう説明されるか。確かに我々は暑さ寒さやオーケストラの演奏に関して好嫌や美しさを感じる。しかしこれらはいつでも思い出すことができない以上かなり例外的な存在と言えるのではないだろうか?

 今後は更に私の書いたこの文章を見返し、批判の余地がある箇所を修正し、この行き着いたいち意見が正しいものなのかを見極めねばならないと思う。それが正しい研究というものの成すべき態度であり、それがなくては私の哲学は唯の自己啓発でお遊びの域を出ない。哲学専攻でもない者がそれっぽい文章を書いて自己満に浸っているのが本当に申し訳ないと思っているし、とっとと私は余計なことを排除して、より多くの時間を思索及び研究の訓練に当てたいと心から感じた。自分の非力さと割ける時間のなさに後悔ばかりが募る...。私の言える範囲はこのくらいである、もっと反省が必要だ。

 最後にカントのこのような言葉を置いて締めくくる。

「およそ足ることを知らぬ無数の傾向によって我々に絶大な禍いを及ぼしていることは、争いがたい事実である。」(岩波文庫判断力批判」P138)

この禍い、止めたいと思いませぬか。