ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

お酒についてダラダラと

はじめまして、適当に大学生してるものです。メガネ氏に今回の思想に誘われて常日頃から言ってる過激な発言やめちゃくちゃ理論でも書いてほしいのかなと思いながら今回の記事作成に参加することにしました。

食に関して書いてほしいとの要望があったので適当に自分の考えでも書こうと思います。
食と言われて真っ先にお酒のことを考えました。大学生になって酒を飲む人も増えたと思いますが中にはお酒が苦手な人もいると思います。
新歓や祝勝会などで先輩や上司に酒を飲むのを勧められた人もいると思います。それに関して仕方ないけど付き合うかって人と面倒だからと断る人の2択が自分の生きてきた中で分かりました。
もちろん嫌なら断るのも大切だと思います。しかし社会に出て得をするのは間違いなく前者であり出世をするのもよほどの実力がない限り前者です。理由としては1つは情報をたくさん得られるということ。お酒というものは
怖いもので酔ってしまうと自分の考えを思いがけずとも言ってしまうことがあります。普段からため込んでいる人はより一層その傾向があります。この情報社会の中では
相手に情報をたくさん漏らしてしまうとよろしくないと思っているのが自分の考えです。なら飲まなければいいのではと考える人がいるでしょう。それが2つ目の理由に
結びついてきます。2つ目の理由は今現在お酒というものが人との交流の手段の1つになっているという事実です。別にそんな繋がりなら必要ないと切り捨てるのは
簡単です。しかし、それは後々自分のためになるのか?と考えたとき絶対に結論はだせないはず。なら一応繋がりを持つべきであると思います。
たかが酒で繋がれる関係なら安いものだと思います。それが将来自分にとっての重要なパイプになるかもしれないし、ならないかもしれない。
なら関係をむやみやたらに切らずに残すべき。ここまで自分の意見を垂れ流しにしたので軽く親と祖父の話をします。2人の共通点は多くの人に好かれている点です。自分の比にはならないくらい広くうらやましく思います。
その2人は運転しなければならないとき以外は酒を勧められたとき快く飲んでいます。2人とも自覚はないと思いますが人と楽しく接する極意というものを持っていると
考えています。
それが全て酒の力だけではありませんが酒も関わっているのは確かです。
なにが言いたいかというと酒というもの使うことで自分のためになると思います。逆に大変な事に遭遇する場合もあるので個人的には嫌いな人も
毎日とは言いませんが数日に1度は酒を飲んで耐性を付けるべきだと思います。今回の若者思想に誘ってもらって内容が濃い記事が書けませんでしたが良い経験ができたと思います。
誘ってくれたメガネ氏に感謝したいと思います。

 

カツ丼を契機とした人の好き嫌いについて

  初めまして(?)、メガネをかけた生物氏からの誘いでこの企画に参加させて頂く者です。(すみませんこれ以下常体で書かせて頂きます→)彼とは高校同期の関係にあり、高校時は彼とはそこそこに仲は良かったものの、(多分頭の良い奴だなぁコイツの話は高尚でついていけないなぁ。)くらいにしか思っていなかった。

 だが最近は、こんなスゲえ()奴が俺と同じ高校に通っていたのかと思うと大変感慨深い。一回彼が東京に来た時などに議論をすることがあったが、雲の上の存在かのように敬意を払っていた彼と対等に渡り合って意見交換が出来たり、お互いに感得したことを呟いたりできて、やはり、彼という存在と関わりを持てたのは貴重だったと思い返しながら今この前文を打っている。 彼はスゲえ人物だ、アクティブすぎる(小並)。

 

 

  彼との関係に終始したので自己紹介も雑多に。

 私は現在東京外大の仏語科に通う者である(ツイ廃でもある※大学垢:@OmoriNoMainaka、より思索的内容を含むサブ垢:@Omori_no_subaka)。

 受験時の大学決めでは、(私は有難いことに、親のおかげで英語が比較的できる脳みそを育成できたので)自分のキャパで狙える偏差値の高く就職実績もある大学を狙ってこう、その方がきっと企業就職を考える上でも有利だ!そうに決まっておる社会を生きる俺らは金が大事なんじゃ!ということで東京外大を狙った。勿論フランスにも興味はあったのだけれど(簡単に言うと幼少期にフランス行ってたりフランス史好きだったり高校時の精神錯綜期にデカルト哲学を軽~く知って勇気付けられたりしたこと)、一番の理由はそれだった気がする。

 ただ、私は紆余曲折あって再び哲学に非常に関心を寄せるようになり、しかし満足に哲学することができない(具体的には哲学に当たる授業やゼミがほぼない、言語第一の大学の嵯峨か哲学に関心を寄せる人が私の知る限りほぼいない、そもそも主専攻である仏語の負荷が大きすぎて哲学に時間を割けない)現状で悶々とした学生生活を送っている。勉強会だの研究発表会だの筑波の学生さんが開催している討論会だのに参加したいが、知識量の少ない私にとっては敷居が高いし割く時間も十分にないという始末である。その点ではメガネをかけた生物氏と彼の所属する大学や彼の本来したいこととの関係にも似ているのかもしれない、そういう意味でも彼の活動には大変共感でき好意的である。

 そして、就職の話も示したが、とにかく哲学研究に没頭したい、これこそが私のライフワークにふさわしい、特に余剰のお金は求めない、そもそも俺は一般企業就職では満足しないだろうという思いから、留年することなくこの大学を無事卒業し、卒業後は哲学を専攻できる大学院(東大院が一番の希望だが果たしてどうなることやら...)に入り直したいというのが理想の将来像である。就職を考えて入った学び舎で就職なぞしないという決断をしたのは皮肉なものである。現在は、”まぁ仏語できたら哲学もっと楽しめるじゃろ、ベルクソンほんとすこw”くらいのモチベで大学に通う毎日である。

 以下、彼から与えられたテーマである「食」(をかなり拡大解釈して自分が書きたいことを表した)文章が続く。保険をかける訳ではないが、当然哲学的内容を含み、これは上述の背景により、稚拙な洞察で引用も不適切だろう。またブログなぞに打ち込むのは滅多にない機会なので非常に読みにくいだろう。そして何より時間を潤沢に割けていないので大満足の文章とはいかなくなろう。しかしこれは私が哲学を表すことのでき、私の哲学を発展させられる貴重な機会なので気にせず緊張せずやや砕けた形式で書いてゆく(暖かい目で見て欲しい...)

 

 

  テーマとしては主に4つある。

1:「食」から好嫌への考察へ至った動機と何故好嫌を明らかにしようと思ったか。そして概念と好嫌との関係について。

2:そもそも好嫌は、全て経験的事実に集約できるのか、それとも非経験的なものなのか。

3:現状好嫌とはどのような存在だと言えるか。そして想起できないものについての好嫌についてはどうか。

4:まとめと更なる疑問。

 これを通じて私は、人の”好嫌”、そして関連して美について私が限られた中で今まで読んできた本を踏まえつつ、私の現状で迫れる限り迫ってみたい。

 

 

 1:「食」から好嫌への考察へ至った動機と何故好嫌を明らかにしようと思ったか。そして概念と好嫌との関係について。

 私が、かのメガネ氏から「食について何か書いてみてくれ、拡大解釈もしてくれて良いよー」と言われたとき、私は真っ先に「カツ丼」を思い浮かべた。アツアツのご飯の上にジューシーなカツが乗っかり、それを半熟卵でとじたアレである。ダシと上手く絡み合い、肉とコロモとコメが絶妙な調和を生むアレである。私の好物である。外食をすればまずメニューを通覧し、カツ丼があれば必ず注文するくらいカツ丼は私の好物である。 

 おや、「食」について書けというからにはより社会的か理系チックな話を求められているのだろう、これはマズい。否、このままカツ丼の魅力について延々と語っても良いだろう。いやしかし「ワカモノ思想」という肩書で参加しているのに、その内実がグルメリポートではちょっとなぁ,,,などと思っていると、何故私は「食」という言葉を見ただけで”好きな”食べ物であるカツ丼を即座に思い浮かべたのだろうか、と思い当たった。哲学徒たる私はこうした問題に以前から興味があったように思う(興味があっただけで全然マトモな文献も参照出来ていないのだが)。

 そんなわけで、この企画では、好嫌一般について考えることを目的とし、手始めに「食」という概念を知覚しただけで好物を思い浮かべたのは普遍性の高いことなのかについて目を向けることにした。

 しかし、これは困難を要することであった。何故なら我々は、例えば「好きなもの」について考えることはできても「好きであること」について考えることは容易ではなく、これは別レベルの問いだからである。これはソクラテスプラトンアリストテレス、現代的思想家であってもハイデガーなどが、存在とは何かという問題を投げかける際に参照した問いに近い。例えばこれ。

『というのも、あなたがたが「ある」という表現を使うとき、もともと何を思念しているかを、明らかにあなたがたはずっと以前から熟知している。しかしながらわれわれは確かにかつてはそれを理解していると信じていたが、今や我々は困惑に陥っている』(プラトンソピステスより)。

 そうではあるが、私が納得する限りこの困難な問題に尚理性的に取り組んでみたかった(右のような例もある。『しかし、アナクサゴラスただひとりは、理性は作用を受けないものであり、他のどんなものとも共通性をもたないと主張する』「アリストテレス、心とは何か、桑子敏雄訳、岩波文庫p33より」)。何故なら好嫌は、しばしば我々を惑わせるからである。例えば私が節度なくカツ丼ばかり食っていれば不健康になり心身に支障をきたすだろうし、経済的負担もある。逆に嫌いな食べ物でも、時と場合によっては食べなくてはならない。或いは好嫌に基づく議論はあまり生産性あるものではないし(私が敬意を払う哲学などはそのきらいはあるが...笑)、職場や大学など、高度に社会的な場面で好嫌に基づいて人々と接していて起こる衝突も多い。勿論節度ある対応、ニュートラルな言説を心掛けよなどはよく言われていることであるものの、しかしそれが本質的に可能であるのかについては疑問点が残るし、どの程度好嫌を抑えるべきかについては画一的な判断が大変難しいことと思う。やはりこの問題は、食に限らず、社会を生きる我々にとって、ひいてはあらゆる学問にとっても解決或いは調停の難しい問題であり、是非とも解決せねばならぬと感じるのだ。

 そこでまず、この問題に取り組むに際して直接の経緯となった、「概念により、その概念についての好嫌は真っ先にイメージできるのか」について考えることとした。結論から言うとこれは間違いであったが、次項へのヒントとはなる考察であった。”概念という主語が、具体例たる好物という術語を含んでいるか”といういかにもライプニッツ的な発想の下、思考実験を行った。例えば 食⇒カツ丼 には成功した。 飲み物⇒コカ・コーラ にも成功した(私の好きな飲料はコカ・コーラだと思っている)。しかし、 マクドナルド⇒ビッグマック であった(私はビッグマックは特に好きではないし好きなマクドナルドのメニューは特にない)。そして 母親⇒母子健康手帳に載ってそうな母親のイラスト であった(私の一番好意を寄せる母親は、私の母親である筈だ)し、 スポーツ⇒サッカー であった(私はサッカーはあまり好きでないし好きなスポーツは陸上競技である。ちなみに私は陸上競技部に所属している。)この思考実験からも分かる通り、一番優先されるイメージが好きな物(或いは嫌いな物)である場合はあまり多くない。

 しかし、好きなものというのは、予め決めるタイミングがあるからして決まるのではないかという仮定に成功した。 例えば、初対面の人に自己アピールをする際や、英会話の練習などで好きな食べ物を言わされる際、我々は好物について決めておくことがある。こうしたことがキーとなって我々の好嫌は決まるのではないかと自ずと考えたのである。

 

 

 2:そもそも好嫌は、全て経験的事実に集約できるのか、それとも非経験的(=純粋)なものなのか。

 1にて、好嫌は経験的なものなのではないか、という仮説を立てた。ここではこれについて私が考えたことを記述してゆく。例えば、熱い寒い臭い眩しいのような感覚は非経験的で本能的に我々に備わっていると言っても特に問題はないように思う。他の動物は恐らくこのような感覚を持っているからというのもよい例かもしれない。ところが、好嫌については、非経験的であると定義づけることは思いつく限りかなり難しいようである。例えば、他の動物は人間が抱くような、包括的な好嫌があるのかが分からないし(勿論他の動物であっても、上手いマズいあのメスに惹かれるなどと思うかもしれないがこれらが、我々の意味するところの好嫌であるのかはよく分からない)、人間の中でも経験を持たなそうな赤ん坊や認知症患者の方が、好き嫌いに対してどう考えるかを見ようとしても、果たして彼らが本当に経験を持たないのかが怪しい(例えば、赤ん坊なら母親の中にいる時から考えると何かしらを経験しているのかもしれないし、完全に何もかも忘れた認知症患者というのも聞いたことが無い)。好嫌が経験的である可能性についてはまだ提示できるものの(好嫌のような価値が経験的であることについては、新曜社出版の「ワードマップ現代現象学」の第6章の1『価値と価値判断』などに興味深い言説が或る、あくまで経験から哲学する現象学特有の考え方が知られよう)、非経験的であることの代表例については提示が困難だろう、我々人間が非経験的である状態を現実に想定することが困難であるという理由によって。

 以上から分かるように、好嫌が経験的であるか、非経験的であるかについてはよく分からなかった。しかし、好嫌、特に美や欲について、経験的に考察を行うとこれは美学や倫理学、或いは現象学の問いになってしまう。美とは何か好嫌とは何かということについてあくまで非経験的に考えると、これは存在者の存在を探求する学である、形而上学の問いに帰結する(と私の大学で開講されている数少ない哲学の授業で教わった)。従って、以降の好嫌の試論の中で経験的結論に達すれば前者らの学、後者に達すれば形而上学的問いと思って頂きたい。

 

 

 3:現状好嫌とはどのような存在だと言えるか。そして想起できないものについての好嫌についてはどうか

 ここからが本番である(笑)。私の考えた好嫌の定義の色々について、そして時間の制約上、最終的に行き着いた有力筋を順に紹介したい。まず、その言葉の意味上、「好き=ポジティブな存在」、「嫌い=ネガティブな存在」と仮定した。しかしそれはすぐに画一的定義ではないと分かった。例を出せば早い。私は哲学的難問が大好きだ。或いは、近年ではピカソの絵やシュールレアリスム、数分間演奏のない曲といった、ポジティブとは程遠い作品が持て囃され、好まれることが多い。この辺りでこれら仮定は間違いと理解される。

 次に、「好き」の代表例たる「美しい」に照準を絞って、次第に好嫌についても分析をしてゆくことにした。 私なりに見聞き読みしたことをまとめると、「美しい」とは、”希少であること、完全であること、そしてこれら2つの総合”の3パターンがあるように思う。

 「希少であること」というのは文字通りである、経験回数や時間が少ない、短いということである(これについて、私の信頼できる知り合いが、美人という定義は希少性から生じるのではないかというテーマで何らかの課題論文を仕上げており、不特定多数にアンケートをとったり、日本人と外国人との美人の感覚の違いに着目するなどしてなんか面白いことをしていた)。

 これに対して、「完全であること」というのはプラトンのいうイデアのようなものだと思っている(これについては”プラトン イデア”とかでググれば大体言いたいことは分かってくれると思う)。しかしこれだと、完全であることがどのようにあるのかについては仮定がついたものの、完全であるとはどのようなことか、ということへの分析が不十分である。例えばハイデガーは、現象学的芸術論として、『芸術作品の根源』(1950年。邦訳:平凡社、2008年)にて、美学並びに芸術論の本質として、「真理が作品内に立ち現れること」という点を挙げていたようだ。彼によれば完全であることを真理であることと換言して考えても良さそうだが、真理とは何かと考えてもかなり難しい。

 そもそも、このように3パターンに類型せずとも、「美しい=〇〇である」と言えても良いのではないか。これに関する私の知り得る記述はないかと考えた。ここで私は、ベルクソンが好きなのでベルクソンに良い記述があっただろうかと探し求めた。彼の主著、『時間と自由』(本当はちくま学芸文庫版の「意識に直接与えられた内の試論」の方が良いらしいが)にこのような記述があった。

 『だから、優美さの感情のなかに一種の肉体的共感が芽生えることにもなるが、さらにこの共感の魅力を分析してみれば、私たちがその共感をそれ自体として好むのはそれと精神的共感との類似性によっているのだということが分かるだろう。前者は後者の観念を巧みに暗示しているのである。』(「時間と自由」、岩波文庫、中村文郎訳、p25)

 引用するところがあまり適当でない感があるが、とりあえず彼は、美しいということを、何かしらの共感と考えていたようだ。共感ということは、美しさは主観的でないのだし、常に他者を考慮に入れているような意味合いである、文字通りの意味とすれば(これは、例えば現象学的に言うところの間主観性であったり、レヴィナスの他者についての形而上学でも似たような解釈がイケそうな感じはある)。ともあれ、ここまでの流れを適切に信頼するならば、美しさ、或いは根本のテーマであった好嫌についても、他者との関係で説明されるのではないかというところまで行き着いた。確かに近年シュールレアリスム的絵画が流行ったことからも、時代や社会の潮流というか、そうした他者からの影響で好嫌が決まるということは有り得るように思う。ここまでが、時間と参照文献の制約上、私が思索の根を伸ばすことができた限界である...。

 

 4:まとめと更なる疑問、そして反省

 以上によって、私は、最終的には、人の好き嫌いについては、或る種の共感ではないかということに行き着いた、行き着いたとは言えども、批判的ではないし引用のタイミングが滅茶苦茶で恣意的である。しかし、共感だとすれば、我々は、我々の好嫌に関して、最早自己のみでの解決やコントロール不能ということになる。これは興味深い視点である。例えば、他の方々は真っ当に「食」について何かしらの意見を書いてくれることと思うが、これら意見の多くも、常に他者からのそれとして共感の審議対象であるだろうし、我々がいかに(幾ら自分ひとりでの考えと思っていても)他者に影響されて生きているかという嘆かわしい問いにもつながってこよう。その上で我々は「食」をも含めた他なるものと如何に向き合うかについて今以上に慎重になるべきではなかろうか。

 更なる疑問も置いておく。好嫌とは共感によるとして、或いは希少性や真理への親和性だとして、本質的にいつでも想起することのできない、匂いや音、触覚についてはどう説明されるか。確かに我々は暑さ寒さやオーケストラの演奏に関して好嫌や美しさを感じる。しかしこれらはいつでも思い出すことができない以上かなり例外的な存在と言えるのではないだろうか?

 今後は更に私の書いたこの文章を見返し、批判の余地がある箇所を修正し、この行き着いたいち意見が正しいものなのかを見極めねばならないと思う。それが正しい研究というものの成すべき態度であり、それがなくては私の哲学は唯の自己啓発でお遊びの域を出ない。哲学専攻でもない者がそれっぽい文章を書いて自己満に浸っているのが本当に申し訳ないと思っているし、とっとと私は余計なことを排除して、より多くの時間を思索及び研究の訓練に当てたいと心から感じた。自分の非力さと割ける時間のなさに後悔ばかりが募る...。私の言える範囲はこのくらいである、もっと反省が必要だ。

 最後にカントのこのような言葉を置いて締めくくる。

「およそ足ることを知らぬ無数の傾向によって我々に絶大な禍いを及ぼしていることは、争いがたい事実である。」(岩波文庫判断力批判」P138)

この禍い、止めたいと思いませぬか。

 

僕食禄

 いただきます!

 はじめまして, 大学で化学を学んでる2回生のセレシーです. この度は, 何かしたいなーとテキトーに考えていた時にこのお話をいただいたので参加させていただきました. 今回は「食」とゆうテーマと聞いたので, 私が大学生になってから実践してきたことやボーっと考えていたことを書きたいと思います. 整理できてなくて「結局何言いたいの?」とゆう文もあると思いますが, 温かい目で見てくれるとありがたいです. 

 さて, 本題に入る前に私のバックグラウンドについて少し話そうと思う. 私が食事に対してまじめに興味を示しだしたのは小4のころだった. 家庭科の時間に実習ではじめて料理を作ってから, 「自分で作るのって楽しい!」と純粋に思い, そこから3年間, 毎週末の夕食は私は手料理を家族に作っていた. (その頃の定番は, カレーや焼きそば, カレイの煮つけとかつくってたなぁ...) 同時期に私はあるスポーツと出会った. ロードレースだ. 私が新しい自転車を乗り回して遊びに行っていたとき, ロードバイクが作るトレインが私の横を通り過ぎた. あの瞬間の疾走感やクールさは鮮明に覚えている. マジでかっこよかった. それをきっかけに, 私は今でもグランツールを追いかけては興奮している. 少し話し過ぎましたね, 本題にいきましょうか!(笑)

アートとしての「食」

 私は, 食事と美術館で鑑賞することは似通ったものがあると信じています. その理由には, 五感で楽しむこととその作品の自分にとってのすばらしさを考える点が挙げられます.

 私は食事を楽しむとき, 五感で楽しんでいる. これは同じような楽しみ方をしている方も多いだろう. 少し疑問点になるかもしれないので注意しておくと, ここでの触覚は口に含んだときの舌触りや箸などで間接的に感じる触覚である. 魚派と肉派と聞かれると私は魚派なのだが, この原因もここにある. 魚は種類によって舌触りや風味, 素材そのものを丸ごと食べられる点で非常に面白い. これらの違いを感じながら寿司や焼き魚, 煮魚を食べた時の感動はおすすめするよ! もちろん, 肉もおいしいけどね. あの筋繊維が切れるときを感じる楽しさは美味に直結するところがあるように感じている. 食のジャンルとしては, 和食はこの楽しみ方にとても合っているだろう. 超繊細な風味と食感, 舌触りが感じられるので, もし感じたことがない人は, 5千円くらいのコースでいいので, 一度感じてみてほしいと思う. 

 もう一つの食事の楽しみ方は, その料理を作る立場になってみることである. そこで考えたり妄想しているのは, 「自分なら何を±食材or調味料するか」と「試行錯誤と目指したもの」である. そこから, 作った人の試行錯誤や感性を想像して自分なりのすばらしさを見出すのである. 

 自分は学食や給食とゆうジャンルが割と好きで, 小学校のころからよく食べていた. おかげで丸々と太っていたけれど... そこそこおいしくてチープなところがちょうどよく愛せたのだ. しかし, 味付けや食材に飽きてきたころ, 自分で工夫しようと考えた. 学校にマヨやらケチャップやらポッカレモンやら持って行って, 日々味変して面白がっていた. その日から毎日の給食は刺激的で楽しかったのはとてもいい思い出である. この時期から, 化学変化における触媒の立ち位置を意識していたのかと今になったら感じることがある. この時は(今もだが)食事を自由に毎週作らせてくれた母(野菜や果物に関係する職)に感謝していた. なぜなら, きゅうりやキャベツ単体を食事として出しても怒られなかったからだ. 洗って食べるところから始まり, 調味料の追加, 加熱や冷凍, 他の食材と料理して食べる...と, 1食で1つの食材を中心に様々な食べ方を試行錯誤していた. その経験は, 学校で給食を工夫することにとても活きていた. 自炊も然りなんだろうが, 最近はめっきりやらなくなった. 自炊再開したいなぁ...とはずっと思ってる. (しないやつですよね~)

 私がしていた食材遊びは, 料理する人の行動を考えることにも繋がった. お店に行ったとき, 「うちはここにこだわってます!」的なのよくありますよね? それを見てから料理を食べるの, すごく好きなんです. その作品を完成させた人が, どんな試行と思考と志向をして作り上げたのかに触れたとき, 自分が劣っている面に気づけるんです. どんな材料を組み合わせたのか, 食材投入のタイミング, その繊細なこだわりに気づいたとき, 「大変でしたね」「風が吹きましたね」と思わずこぼれるのがたまらなくいい. 私は職人でも何でもないので, 細かなツッコミは受け入れかねますが, 自分のしていた体験をもとに, おいしいと感じるものを楽しみ, 面白く思っているのです. 

エネルギー補給としての「食」

 私がまじめに学習に対してアクティブになり始めたのは, 大学に入ってからである. 元々医学や薬学に興味があった私は(まぁいろいろ省略), 手当たり次第に薬の基本やら解剖学やらの本に手を出していた時があった. (1回生の時はバイトもせずそんな感じで独学していた) そのとき, いかに効率と集中を極めるか, 手を止めずに作業するかを考え, 創作したのは「1.75食生活」だった. 1日3食は私にとってあまりにも集中を削ぐものだったからだ. ご飯は愛しているが眠気を招く. そもそも食事の時間がもったいないなど様々なことを考えた結果そうなった. 昼に0.5食(軽く麺など), 夕方に1食(栄養バランスの調節), 間食に0.25食(炭水化物&タンパク質の源「グミ」). これが効果てきめんで, 1日5時間睡眠でも問題なく(普段8時間), 生産性が人生で最高に高かったように思える. 

 その生活をし始めて数か月後, ある男が情熱大陸に出ていた. 落合陽一だ. 彼は私が求めていたものをアップグレードし, 更には当たり前としている生活を送っていた. 「これはいい, 自分も試してみよう!」そのときのカレーの「作業感」はすさまじかった. しかし, その生活の狭間で食べる「洗練された食事」に対する感動に既に気づいていた私は, 「この均質が価値センサーを敏感にするんだ!」と自己を洗脳し, ほんの少し続けていた. しかしある日気づいた. 「将来を売って今を買っている」ことに. 早めに気づいてほんと良かった. 自分はあまり早死にしたいと考えていない個体なので, それ以来1.75食はできなくなってしまった. 

 しかし, その均質的な食事の片鱗は今も生きている. 近頃, 学食やスーパーで食べるものは, 大体同じものばかりなのだ. 価値センサーの強化もありますが, 急なエラーやシャットダウンが起こらないように, 社会の端で絶えてしまわないよう細々と食べている. みたいに. それはまさに, ロードレースにおける補給食そのものなのだ. 人生でハンガーノックが起こりたくはないですからね(笑)

 

 長々と自分の体験や考えを書き連ねてきましたが, 「食は楽しい」, これは多くの人に分かってもらえると思います. 補給食でも, それはそれで面白い価値が生まれるので楽しいのですよ(). 最後になりましたが, このような中学生以下の文を自由に書かせてくれたmeganeデスク氏と育ててくれた両親, 一緒に食事をしてくれた友達に感謝を申し上げます, ありがとう! 本文に関しては, こうゆうやつがいるんだな程度に思っていただければとても嬉しいです. それではまたどこかで会いましょう. 

 

ごちそうさまでした!

しその思想

 

 最近ぐずついた天気である。おかげで佳乃は私に水を与えるのを面倒がるようになってきた。

 水を与えるという表現でお分かりになったかもしれないが、私は植物、しそである。最近佳乃とかいう大学生にお花屋さんからひきとられ、今では彼女宅のベランダでのんびり過ごしている。当初は明らかに「食べられるもの」として選ばれたように感じたが、私を「ししょう」と呼んで気にかけているあたり、食い意地だけの関係ではないらしい。水やりのことは少し寛容にとらえてやっている。

ぐずついた天気の中で夜遅くに帰ってくる佳乃と空を見上げるが、月も、星も、見られない日が多くなってしまった。雲の向こうには広大な宇宙が広がっているというのに、水蒸気のふわふわしたものによってそれらがさえぎられるなんて、私たちは小さいものだと笑いながらこの雨の季節を楽しんでいる。

さて、月を遮るものと言えば雲だけではない。私たちが根を張るこの惑星だって、時に月に影を落とすのだ。そう、月食

今年、2018年の7月28日に日本で皆既月食が見られる。明け方、明るむ空の中、ひそかにかけながら沈みゆく月。私はその、なんの主張もなくただ定められたように進んでいく天体の景を見て、きっと月へと思いをはせる。

 月食の間、私が月の上にいれば日食をみることになる。太陽が欠ける、それだけでもすごいことだが、それによって昼間に突然夜が訪れることに気づき、驚く。ひととき星が輝き、しかもその星たちは真夏にもかかわらず冬にみえるはずのものである。

突然訪れる暗闇、地球の後ろに広がる満天の、季節外れの星座たち。それらと対峙したとき、私はどんな気持ちを抱くのだろう…

 

 皆既月食は明け方に起こるので、残念ながら私の住む岡山では食の途中で月が沈んでしまって部分食しか見られない。 もっと東に行けば皆既食まで見守れるのだが、私はここにとどまり、続きを思い描くとともに遠い月へと思想の旅行に出かけるとしよう。

雑記

HN: Whetstone

最近不祥事で有名な近畿地方にある国立大学で2回生をしております。本文の文体と自己紹介文の文体が違うことはスルーしてください。

 

 今回のお題は食であるが具体的な指示も無い為、思いつくままに書こうと思う。

 

他人の食

私はサークルの関係上留学生と話すことが比較的多く、日本人の友人よりも留学生の友人の方が多い。そして、彼ら留学生の食生活を観察してみると千差万別でとても面白い。(勿論どこの国の人間だろうが食生活は10人10色だが、ベースとなるものを同じくしている同国の人間ならば根本的なところは多少似ているものだ)合理主義を極めて生野菜を丸ごと食べている人もいれば毎日丁寧に弁当を作っている人もいる。そこには個人にとっての食の価値が表れている。食を純粋な生命維持活動と考え、食以外のことに自分の労力を全て注ぐのか、食を他人との交流の手段や自己顕示の道具とするのか…考え始めればきりがない。この話のオチはないのでここで終わりにする。

そういえば、海の無い国から来た一人の友人は魚介類が怖くて食べられないというし、海辺の都市から来た友人は刺身や寿司を好んでいる。辛いものが多い国から来た人は大抵(全員ではない)辛いものが好きだ。彼らは私が持つその国へ対するステレオタイプと一致するので興味深く感じる。逆に、フランス人なのにワイン嫌いでマクドナルド大好きな人やドイツ人なのにビールが嫌いな人を見ていることもなんとなく面白い。もし私がほかの国で暮らしたら、その時の私の友人は食を通じて私のことをどのように観察するのだろうか。

 

自分の食。

 自分の食生活を観察することも面白い。私の食生活はその時の精神状態を如実に表しているからだ。例えば、やる気に満ち、いろいろなことを頑張っている時期は自炊も毎日していろいろな新しい料理に挑戦する。しかし、近頃は自炊を全くせず、家で食べるものといえばトマトと納豆と生魚ばかりだ。臭そうなどと言わないでほしい。自覚はある。どれだけの人がこの文を読むのか見当もつかないが、皆さんの食生活は何を反映しているだろうか。経済状況か友人関係かはたまた居住地域か…

 

蛇足

最近びんちょう鮪や鰹の短冊が頻繁に安売りされているのでよく食べている。最初はきちんと刺身にしていたが、ある時から鮪を短冊ごと醤油なしでかじるようになった。魚特有のにおいが強く感じられ、若干血なまぐさい。噛みちぎる時の擬音はミチミチといったところか。グロ系ホラー小説はあまり読んだことがないが、生肉や生きた動物を噛みちぎる時の擬音がミチミチ的なものであった気がする。いつか見たフィクションの世界のことも意外な場面で体験できたりするものだ。

 

 ずいぶんと長くなってしまったのでここで止めようと思う。文章などレポートと論文以外書いたことがないので書き始めや構成、書き終わりなど、何もわからぬまま調べぬまま書ききってしまったが仕方がない。今読んでいる方(ここまで読んでくれる人がいたのなら)と、このプロジェクトに誘ってくれたmeganeデスクには感謝してもしきれない

「調理実習」のすゝめ

京都のとある立て看板文化大学の理系学部でおおよそ大学生とは思えないクズの生活を送っています、ゆのみと申します。謎の文章書きたい欲に駆られたのとパソコンのタイピングの練習も兼ねて今回企画に参加させていただきました。アイドルマスターシンデレラガールズ(通称デレマス)というコンテンツに脳幹を握られている神谷奈緒担当プロデューサーです。文章の中でも時折デレマスに関した話をすることがあるのでオタクキモいんじゃ死ね!!みたいな方は回れ右してね!

 

主題:料理は最高のコミュニケーションツールである

 

「おいしさ」≠「味」

 
 よく正月にテレビでやっている某格付けチェック番組を見たことがある方も多いだろう。芸能人たちが高級料理と安物(果ては別の食材で作られたもの)とを目隠しをした状態で判別するのだが、視覚を封じただけでしばしば外してしまう。普通の人では手が出せないようなあらゆる高級な料理を食べて経験値を積んできた一流芸能人たちがである。
 「味」は舌に多くある味蕾で化学的に感知し脳へその情報が伝達され認識されるというただのシナプス伝達であるが、どうも「おいしさ」というのは味覚や嗅覚だけでなく感覚すべて(=シチュエーション)に頼っているのではないかと思う。ただの水もペットボトルに入れて売られると美味そうに見えるし、ムショの飯はクサいのだ。この文章では特に「自分以外の人間と(作って)食べる」というシチュエーションについて書いていこうと思う。というかこの文章で言いたいことは次の響子ちゃんのセリフに集約されるのだが…

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(五十嵐響子 cv.種崎敦美 趣味は家事全般で家では弟たちの世話をする面倒見のいいお姉ちゃん。アイドルになっても何かと周りの世話を焼きたがるいい子。クソかわいい。弟になりたい…

 

料理ができるということ


 僕は料理ができる人にとても魅かれる。これはかなり多くの人に同意してもらえると思うが、いったいなぜだろうか?というのは、昔であれば、今のような加工食品やレストランなんてものは少なかったから食材に価値を付加する作業である料理ができるということは大きな魅力であったはずだ。しかし今は下手に作るよりも外で買ってきたり食べたりするほうが断然味が良い(コスト的な問題や安全性の問題はあるが)。わざわざ作る必要がないのだ。
 ここで響子ちゃんのとあるセリフを紹介しよう。

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(何を言ってるんだこの子は…?)


と、突っ込みたくなるが、冷静に考えてみると15歳でぶりの煮つけが作れるのである。家で頻繁にお母さんと一緒に料理をして練習をしていたことは想像に難くない。また、デレマスのアニメで多田李衣菜ちゃん(cv.青木瑠璃子)というロックなアイドルを目指し普段はクールに振る舞う料理とは縁遠いと思われる子(クソかわいい)が、アイドル仲間の友達のために料理を作るというシーンがあるのだが、

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(アニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ」 第11話より)


カレイの煮つけ…だと…?


 多くのプロデューサーが普段の言動とこの料理スキルとのギャップに心を撃ち抜かれたはずである。僕は撃ち抜かれた。魚の煮つけなんて作ったことがないが、きれいに作るのは難しいとよく聞く。このシーンに関してネットでは「りーなちゃんめっちゃ育ちよさそう」「ちゃんとした親にしっかり育てられたんだろうな」といった書き込みがあった。
 何が言いたいかというと、「料理ができる」ということに我々は育ちの良さ=教養の高さ、親との良好な関係性、他者への思いやりの深さを感じるのである。
 単なる作業ではなく、他者との関係性が背後にあるのが料理であり、それを介してコミュニケーションがとれる、つまり料理ができる人に我々は魅かれるのだ。

 

作る/作られる関係


 ところで、古代では(今でも?)料理に毒を盛って食べる相手を殺したりといったことが行われていたのは有名なように、料理を受け取る側は料理を作る側に生殺与奪権を委ねている。よく考えるとこれは結構すごいことであって、錬金術を極め口にした言葉が現実になる黄金(アルス)錬成(=マグナ)を習得したり、法を超越する権力者にでもなったり、地下格闘場で歴戦の戦士たちと格闘したりすることでもなければ明らかな生殺与奪権を手にすることなんて普段の生活ではまずないのだが、実は日常生活で我々は生殺与奪権を安易に手にしたり委ねたりしている。
 つまり、料理を作ってもらうということは、「俺の生き死にはお前にすべて任せるし、お前が俺を殺したりなんかしないということを信じている」というメッセージであり、食卓は作る側、作ってもらう側双方の料理を介した相互コミュニケーションの場なのである。
 告白なんてことに全く縁がない僕が言うのも何だがチープな告白のセリフより「味噌汁を毎朝俺に作ってくれないか…?」なんてイキったセリフを言うほうが案外効果的かもしれない。実際に言ってドン引きされても責任はとらないが。

 

 

 ん…?味噌汁…?告白…?

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ああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(断末魔の叫び声)

神谷奈緒 cv.松井恵理子 僕の担当アイドル。超正統派ツンデレ。なかなか自分の気持ちに素直になれないがその内には熱い想いを秘めている。クソかわいい。クソかわいい。)

 

調理実習の思い出


 ここで中学校の時の調理実習の思い出を少し語ろうと思う。僕がいたのは普通の公立中学校で、まあ当然若気の至りでやんちゃするクソガキがたくさんいたわけで、水風船代わりにした避妊器具(めっちゃ水が入っても割れないことにびっくり)が授業中廊下で飛び交ったり、何者かが自転車のタイヤを刃物かなんかで切りつけたりすることはそれなりにあったわけで、非力な陰キャだった僕はいつ自分に矛先が向けられるかとおびえながら日々を過ごしていた。
 家庭科の調理実習の時間に、不運にも僕は憎きクソガキグループのある一人と班が同じになってしまった。僕はかきたま汁を作る担当になっており、あぁ…鍋ごと頭の上でひっくり返されたりしないだろうか…などと考えていたのだが、運よくそんな事態にはならず、作り終わってみんなでいただきますをして食べ始めていたときにそのクソガキが衝撃的な一言を放った。


「お前の作ったかきたま汁めっちゃうまいな!!」


…は? 僕は一瞬耳を疑った。そして思った。


(なんやこいつめっちゃエエ奴やんけ!!!!)


 特にそこからラブコメ的展開が始まったり、何か関係が変わったりすることもなかったし、今思えばかきたま汁なんて何のテクニックもいらないし出汁が入ってるんだから美味いのは当然だろうと思うのだが、当時の僕はその言葉がめちゃめちゃ嬉しかったのを今でも覚えている。

 

教材としての調理実習


 僕はそのとき料理を作り与えることの喜びを知ったわけだが、調理実習は非常に教材として優れている。
 そもそも料理は手を抜いてもいいところ、手を抜いてはいけないところを判断し、効率的な作業の順番を考え計画し、正確に手早く作業する力、つまり段取り力が求められる。料理は化学実験だ、というのはまさに言い得て妙である。
 調理実習では段取り力に加えさらに、作業を効率的に分担し協力する協調性と自主性が必要となる。そしてみんなで作って食べるというストーリー(シチュエーション)を共有しそこから生み出される冒頭で述べた、「おいしさ」を共有するのである。そこでは達成感や、僕やクソガキの彼のように与える喜び、受け取る喜びを体験できる。これほど教育に適したものはないのではないだろうか。

 

コミュニケーションの場としての「調理実習」


 というか、別に教育だけに留めておく必要はなくね?もっと軽率に「調理実習」すればいいじゃん!
 例えば学校でクラス替えがあった後。よくわからんレクリエーションもいいけどみんなでご飯作ったほうがすぐに仲良くなれるのでは?あるいは大学でのサークルの新歓。だいたい活動の後にアフターで上回生が新入生に飯をおごるパターンが多いが、「同じ釜の飯を食う」よりも、「同じ釜の飯を作って食う」ほうが定着率もあがるのでは?なんてことを思うのである。
 また、異なる文化を持つ人(例えば外国の人)との交流の場で、「調理実習」はさらに威力を発揮する。というのは、その国地域のいわゆる文化を最も色濃く反映しているのは料理ではないかと思うからである。母親の仕事の関係で実家にある食文化の教科書を見ることがあったのだが、食文化というものは場所によって千差万別、基準となるものが存在せず非常に面白い。食は万国共通でありなおかつ個々人がそれぞれ違った食文化を持っている。それを一緒に作り一緒に食すことで、異文化の異文化(食)にしかない表現(食材、作り方、作法)を、今自分が持っているスタンダードと照らし合わせて理解しよう(味わおう)とする、つまり五感をフルに使った異文化の翻訳を行うのである(五感すべてを使う体験は食だけ)。
 また、「調理実習」によって自然と構成員に役割(=居場所)が与えられる(その集団が個人を排斥しない限り)。さらに、自分の作った料理(=成果、存在)がほかの誰かに食べてもらえる(=認めてもらえる)。現代のこのクソみたいな社会で自分の居場所ってどこだろう?ちょっと生きづらいな、しんどいな、と思う人たちでひたすら互いの作った料理をうまいうまいと言って食す「調理実習」があってもいいかもしれない。

    国会が終わったあと高級料亭に各々食べに行くよりも、国会議事堂で国会議員みんなで地元の食材を持ち寄って鍋パなんかするほうが議論も深まりそうだし団結感や国民の信頼も得られるんじゃない?他にも北緯38度線で、カシミール地方で、クリミア半島で、etc… さすがに理想論すぎるかな。

 

あとがき


 ここまで偉そうに食、料理について語ってきたのだが、当の僕は食について無頓着である。ここ数か月家で食べる晩御飯は、白米、ゆで卵、納豆、豆腐、野菜スープ、スーパーのコロッケ、である。僕は別に同じ食事に飽きたりしない人間だしそれなりに栄養バランスはとれていると思うのでこれからもこのメニューを続けていくんだろうなぁと思うが、この文章を書いているうちに自炊するモチベが復活してきたので早速カップラーメンでも自炊して食べようと思います。

「食と宗教」

世界最古で最大の宗教とは「食」かもしれない。

もしかしたら火が発見される前にはすでにあったかもしれない。

一日の食事に感謝する祈り、これは名もなき神にささげられたものかもしれないが、神の概念すらない時代ならその食事に対してもささげられた祈りだろう。

 

「人はパンのみによって生きるにあらず。神の御言葉によって生きるのだ」

という聖書の言葉がある。これの言いかえに

「人はパンなしでは生きられない」

と反論できるという話を聞いたことがある。集まった人々に対して一つのパンと一匹の魚を人数に至るまで増やした、という奇跡が聖書には記載されており、奇跡を起こしてまで、パンを用意しているのは偶然とは考えにくい。そして興味深いことに、信仰と食という言葉を入れ替えても全く矛盾が生じないのである。

「人は信仰なしでは生きられない」

「人は神のみ言葉によって生きるにあらず、パンによっても生きるのだ」

このことから、食というものと宗教というものは、いずれも人間という生き物にとっては必要なものなのだろう、ということが推測される。食に感謝し、食を体に取り込む。そして体力を養い、その体力は食を獲得するために使う。そして食の与える恵みに感謝をする。これは神の教えでも仏の教えでもコーランでもそうなのだけれども、教えに感謝し、教えを取り込み、教えにより精神を修養し、その修養した精神によりまた教えを深める。という宗教の実践の構造に酷似している。

 

食に関連して、子供から圧倒的な支持を得る存在がある。それは「アンパンマン」である。

世界でも稀有な自らの体の一部を食料として分け与えるヒーローである。作者:やなせたかしさんが「おなかが減っている人に食べ物を与える。これ以上の善はない」という気持ちの込められたヒーローである。丸くてわかりやすいフォルムだけが子供の心をつかんでいる、ということではない。そして、大人になって聴くとうっかり泣きそうになるアンパンマンマーチを作詞するようなやなせさんが、デザインだけで子供を納得させようと思っているはずもない。おなかがすいたら助けてくれるヒーロー、それがアンパンマンなのである。

そして自分の体の一部が人への恵みになる、というのは古代の神話においても見られるもので、恵み、すなわち食べ物を与える力強い存在であるアンパンマンはある意味で神に近しい存在といえるのかもしれない。アンパンマンは食という救いの象徴といえるかもしれない。アンパンマンからスケールが壮大になりすぎたような気もする。しかし食というのはそれだけ、人を引き付けてやまないものなのだろうとそんなことを思う。

 

こんなところまで一緒でなくても良いと思うのだけれど、宗教戦争が起こるように、食事をめぐっても毎日のように争いが起きている

和食がいいか、中華がいいか、カレーがいいか、イタリアンがいいか、ピザがいいのか、グラタンがいいのか、寿司がいいのか、ラーメンがいいのか。争いの原因はこう言えるかもしれない。

「今、自分が食べたいものが(自分にとって)一番美味しいに決まっている

ということだ。自分の信仰している神こそが最高だということが、食においても起きているのである。「松屋か、すきやか」「きのこの山か、タケノコの里か」「お好み焼きはオカズである」等々…そんな争いで世界は満ちているのである。

 

しかし争いもあれば、絆を結ぶこともある、それが宗教であり食である。

「結婚するなら、付き合うなら、食べ物の趣味が合う人が望ましい」

もちろんこの限りではないことはわかっている。筆者の個人的な心情からこれを伝えたいと思うのだ。当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれない。しかしこれがどれほど重要なのか。それを述べていこうと思う。

 

1.配偶者が作ってくれるごはんがおいしいであろう可能性が非常に高い。

2.外食に行った時の満足度が双方ともにとても高い。

3.食に対しての信仰心が高まる。

 

ある知り合いが「うちの嫁さんは寿司食わしておけば大丈夫」とかなり食をおろそかにした発言をしていたのだけれど、伝え聞いた話だが離婚したようだ。食べ物の恨みは怖いという。宗教戦争みたいなものだと考えると泥沼化することもあるかもしれない。食事において、どちらかが好きなものを食べるよりも、どちらも好きなものを食べるほうがお互いにとって気分がいいだろう。仲の良い夫婦のつもりだが夫婦喧嘩は避けられない。最近もテレビ台のことで喧嘩したばかりだ。仲直りには美味い食事、美味いケーキなどが欠かせない。お茶やコーヒーなども美味しいと、うれしい。こんな時、食べものの好みが違っていたら大変だ。自分にとって苦手なものが相手が好きでしょうがない、なんてことになったとき、その食事の場においてつらい思いが生じてしまう。一緒においしくご飯を食べられること、これは共同生活をしていくために一番大切なことといってもいいかもしれない。

 

「美味しいものを食べること≠空腹を満たすこと」これは似ているようで違うことというのは覚えて置いたらいいと思う。これは違う欲求だと僕は思っていて。空腹を満たしたいだけなら砂糖水を大量に飲むだけでも極端な話、空腹は満たされる。しかし、おいしいものを食べたい、という欲求は満たされることはない。三大欲などとよく言われるけれども、人間の欲、ニーズというのは多様化しているため、自分の本当の欲がなにか、というのは常に自問しても決してこまることはないのではないだろうか。

 

しかし、天国というものがあるとして、天国の食事がうまいことを祈る。

そういう死後の楽しみ、というのも悪くない。

 

※食と宗教が似ていることが面白く、色々書きましたが、決して特定の宗教を貶める意図はありません。それでも不快に思われる点などあればご指摘いただければ修正させていただきます。ご連絡ください。

 

 

書いた人:ゆる医者 

 

Twitterとマシュマロで人生相談やら医療相談をうけたり、たまに文章を書いたりします。

元内科医で現在精神科医として研鑽中。