ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

「調理実習」のすゝめ

京都のとある立て看板文化大学の理系学部でおおよそ大学生とは思えないクズの生活を送っています、ゆのみと申します。謎の文章書きたい欲に駆られたのとパソコンのタイピングの練習も兼ねて今回企画に参加させていただきました。アイドルマスターシンデレラガールズ(通称デレマス)というコンテンツに脳幹を握られている神谷奈緒担当プロデューサーです。文章の中でも時折デレマスに関した話をすることがあるのでオタクキモいんじゃ死ね!!みたいな方は回れ右してね!

 

主題:料理は最高のコミュニケーションツールである

 

「おいしさ」≠「味」

 
 よく正月にテレビでやっている某格付けチェック番組を見たことがある方も多いだろう。芸能人たちが高級料理と安物(果ては別の食材で作られたもの)とを目隠しをした状態で判別するのだが、視覚を封じただけでしばしば外してしまう。普通の人では手が出せないようなあらゆる高級な料理を食べて経験値を積んできた一流芸能人たちがである。
 「味」は舌に多くある味蕾で化学的に感知し脳へその情報が伝達され認識されるというただのシナプス伝達であるが、どうも「おいしさ」というのは味覚や嗅覚だけでなく感覚すべて(=シチュエーション)に頼っているのではないかと思う。ただの水もペットボトルに入れて売られると美味そうに見えるし、ムショの飯はクサいのだ。この文章では特に「自分以外の人間と(作って)食べる」というシチュエーションについて書いていこうと思う。というかこの文章で言いたいことは次の響子ちゃんのセリフに集約されるのだが…

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(五十嵐響子 cv.種崎敦美 趣味は家事全般で家では弟たちの世話をする面倒見のいいお姉ちゃん。アイドルになっても何かと周りの世話を焼きたがるいい子。クソかわいい。弟になりたい…

 

料理ができるということ


 僕は料理ができる人にとても魅かれる。これはかなり多くの人に同意してもらえると思うが、いったいなぜだろうか?というのは、昔であれば、今のような加工食品やレストランなんてものは少なかったから食材に価値を付加する作業である料理ができるということは大きな魅力であったはずだ。しかし今は下手に作るよりも外で買ってきたり食べたりするほうが断然味が良い(コスト的な問題や安全性の問題はあるが)。わざわざ作る必要がないのだ。
 ここで響子ちゃんのとあるセリフを紹介しよう。

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(何を言ってるんだこの子は…?)


と、突っ込みたくなるが、冷静に考えてみると15歳でぶりの煮つけが作れるのである。家で頻繁にお母さんと一緒に料理をして練習をしていたことは想像に難くない。また、デレマスのアニメで多田李衣菜ちゃん(cv.青木瑠璃子)というロックなアイドルを目指し普段はクールに振る舞う料理とは縁遠いと思われる子(クソかわいい)が、アイドル仲間の友達のために料理を作るというシーンがあるのだが、

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(アニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ」 第11話より)


カレイの煮つけ…だと…?


 多くのプロデューサーが普段の言動とこの料理スキルとのギャップに心を撃ち抜かれたはずである。僕は撃ち抜かれた。魚の煮つけなんて作ったことがないが、きれいに作るのは難しいとよく聞く。このシーンに関してネットでは「りーなちゃんめっちゃ育ちよさそう」「ちゃんとした親にしっかり育てられたんだろうな」といった書き込みがあった。
 何が言いたいかというと、「料理ができる」ということに我々は育ちの良さ=教養の高さ、親との良好な関係性、他者への思いやりの深さを感じるのである。
 単なる作業ではなく、他者との関係性が背後にあるのが料理であり、それを介してコミュニケーションがとれる、つまり料理ができる人に我々は魅かれるのだ。

 

作る/作られる関係


 ところで、古代では(今でも?)料理に毒を盛って食べる相手を殺したりといったことが行われていたのは有名なように、料理を受け取る側は料理を作る側に生殺与奪権を委ねている。よく考えるとこれは結構すごいことであって、錬金術を極め口にした言葉が現実になる黄金(アルス)錬成(=マグナ)を習得したり、法を超越する権力者にでもなったり、地下格闘場で歴戦の戦士たちと格闘したりすることでもなければ明らかな生殺与奪権を手にすることなんて普段の生活ではまずないのだが、実は日常生活で我々は生殺与奪権を安易に手にしたり委ねたりしている。
 つまり、料理を作ってもらうということは、「俺の生き死にはお前にすべて任せるし、お前が俺を殺したりなんかしないということを信じている」というメッセージであり、食卓は作る側、作ってもらう側双方の料理を介した相互コミュニケーションの場なのである。
 告白なんてことに全く縁がない僕が言うのも何だがチープな告白のセリフより「味噌汁を毎朝俺に作ってくれないか…?」なんてイキったセリフを言うほうが案外効果的かもしれない。実際に言ってドン引きされても責任はとらないが。

 

 

 ん…?味噌汁…?告白…?

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ああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(断末魔の叫び声)

神谷奈緒 cv.松井恵理子 僕の担当アイドル。超正統派ツンデレ。なかなか自分の気持ちに素直になれないがその内には熱い想いを秘めている。クソかわいい。クソかわいい。)

 

調理実習の思い出


 ここで中学校の時の調理実習の思い出を少し語ろうと思う。僕がいたのは普通の公立中学校で、まあ当然若気の至りでやんちゃするクソガキがたくさんいたわけで、水風船代わりにした避妊器具(めっちゃ水が入っても割れないことにびっくり)が授業中廊下で飛び交ったり、何者かが自転車のタイヤを刃物かなんかで切りつけたりすることはそれなりにあったわけで、非力な陰キャだった僕はいつ自分に矛先が向けられるかとおびえながら日々を過ごしていた。
 家庭科の調理実習の時間に、不運にも僕は憎きクソガキグループのある一人と班が同じになってしまった。僕はかきたま汁を作る担当になっており、あぁ…鍋ごと頭の上でひっくり返されたりしないだろうか…などと考えていたのだが、運よくそんな事態にはならず、作り終わってみんなでいただきますをして食べ始めていたときにそのクソガキが衝撃的な一言を放った。


「お前の作ったかきたま汁めっちゃうまいな!!」


…は? 僕は一瞬耳を疑った。そして思った。


(なんやこいつめっちゃエエ奴やんけ!!!!)


 特にそこからラブコメ的展開が始まったり、何か関係が変わったりすることもなかったし、今思えばかきたま汁なんて何のテクニックもいらないし出汁が入ってるんだから美味いのは当然だろうと思うのだが、当時の僕はその言葉がめちゃめちゃ嬉しかったのを今でも覚えている。

 

教材としての調理実習


 僕はそのとき料理を作り与えることの喜びを知ったわけだが、調理実習は非常に教材として優れている。
 そもそも料理は手を抜いてもいいところ、手を抜いてはいけないところを判断し、効率的な作業の順番を考え計画し、正確に手早く作業する力、つまり段取り力が求められる。料理は化学実験だ、というのはまさに言い得て妙である。
 調理実習では段取り力に加えさらに、作業を効率的に分担し協力する協調性と自主性が必要となる。そしてみんなで作って食べるというストーリー(シチュエーション)を共有しそこから生み出される冒頭で述べた、「おいしさ」を共有するのである。そこでは達成感や、僕やクソガキの彼のように与える喜び、受け取る喜びを体験できる。これほど教育に適したものはないのではないだろうか。

 

コミュニケーションの場としての「調理実習」


 というか、別に教育だけに留めておく必要はなくね?もっと軽率に「調理実習」すればいいじゃん!
 例えば学校でクラス替えがあった後。よくわからんレクリエーションもいいけどみんなでご飯作ったほうがすぐに仲良くなれるのでは?あるいは大学でのサークルの新歓。だいたい活動の後にアフターで上回生が新入生に飯をおごるパターンが多いが、「同じ釜の飯を食う」よりも、「同じ釜の飯を作って食う」ほうが定着率もあがるのでは?なんてことを思うのである。
 また、異なる文化を持つ人(例えば外国の人)との交流の場で、「調理実習」はさらに威力を発揮する。というのは、その国地域のいわゆる文化を最も色濃く反映しているのは料理ではないかと思うからである。母親の仕事の関係で実家にある食文化の教科書を見ることがあったのだが、食文化というものは場所によって千差万別、基準となるものが存在せず非常に面白い。食は万国共通でありなおかつ個々人がそれぞれ違った食文化を持っている。それを一緒に作り一緒に食すことで、異文化の異文化(食)にしかない表現(食材、作り方、作法)を、今自分が持っているスタンダードと照らし合わせて理解しよう(味わおう)とする、つまり五感をフルに使った異文化の翻訳を行うのである(五感すべてを使う体験は食だけ)。
 また、「調理実習」によって自然と構成員に役割(=居場所)が与えられる(その集団が個人を排斥しない限り)。さらに、自分の作った料理(=成果、存在)がほかの誰かに食べてもらえる(=認めてもらえる)。現代のこのクソみたいな社会で自分の居場所ってどこだろう?ちょっと生きづらいな、しんどいな、と思う人たちでひたすら互いの作った料理をうまいうまいと言って食す「調理実習」があってもいいかもしれない。

    国会が終わったあと高級料亭に各々食べに行くよりも、国会議事堂で国会議員みんなで地元の食材を持ち寄って鍋パなんかするほうが議論も深まりそうだし団結感や国民の信頼も得られるんじゃない?他にも北緯38度線で、カシミール地方で、クリミア半島で、etc… さすがに理想論すぎるかな。

 

あとがき


 ここまで偉そうに食、料理について語ってきたのだが、当の僕は食について無頓着である。ここ数か月家で食べる晩御飯は、白米、ゆで卵、納豆、豆腐、野菜スープ、スーパーのコロッケ、である。僕は別に同じ食事に飽きたりしない人間だしそれなりに栄養バランスはとれていると思うのでこれからもこのメニューを続けていくんだろうなぁと思うが、この文章を書いているうちに自炊するモチベが復活してきたので早速カップラーメンでも自炊して食べようと思います。