ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

「食と宗教」

世界最古で最大の宗教とは「食」かもしれない。

もしかしたら火が発見される前にはすでにあったかもしれない。

一日の食事に感謝する祈り、これは名もなき神にささげられたものかもしれないが、神の概念すらない時代ならその食事に対してもささげられた祈りだろう。

 

「人はパンのみによって生きるにあらず。神の御言葉によって生きるのだ」

という聖書の言葉がある。これの言いかえに

「人はパンなしでは生きられない」

と反論できるという話を聞いたことがある。集まった人々に対して一つのパンと一匹の魚を人数に至るまで増やした、という奇跡が聖書には記載されており、奇跡を起こしてまで、パンを用意しているのは偶然とは考えにくい。そして興味深いことに、信仰と食という言葉を入れ替えても全く矛盾が生じないのである。

「人は信仰なしでは生きられない」

「人は神のみ言葉によって生きるにあらず、パンによっても生きるのだ」

このことから、食というものと宗教というものは、いずれも人間という生き物にとっては必要なものなのだろう、ということが推測される。食に感謝し、食を体に取り込む。そして体力を養い、その体力は食を獲得するために使う。そして食の与える恵みに感謝をする。これは神の教えでも仏の教えでもコーランでもそうなのだけれども、教えに感謝し、教えを取り込み、教えにより精神を修養し、その修養した精神によりまた教えを深める。という宗教の実践の構造に酷似している。

 

食に関連して、子供から圧倒的な支持を得る存在がある。それは「アンパンマン」である。

世界でも稀有な自らの体の一部を食料として分け与えるヒーローである。作者:やなせたかしさんが「おなかが減っている人に食べ物を与える。これ以上の善はない」という気持ちの込められたヒーローである。丸くてわかりやすいフォルムだけが子供の心をつかんでいる、ということではない。そして、大人になって聴くとうっかり泣きそうになるアンパンマンマーチを作詞するようなやなせさんが、デザインだけで子供を納得させようと思っているはずもない。おなかがすいたら助けてくれるヒーロー、それがアンパンマンなのである。

そして自分の体の一部が人への恵みになる、というのは古代の神話においても見られるもので、恵み、すなわち食べ物を与える力強い存在であるアンパンマンはある意味で神に近しい存在といえるのかもしれない。アンパンマンは食という救いの象徴といえるかもしれない。アンパンマンからスケールが壮大になりすぎたような気もする。しかし食というのはそれだけ、人を引き付けてやまないものなのだろうとそんなことを思う。

 

こんなところまで一緒でなくても良いと思うのだけれど、宗教戦争が起こるように、食事をめぐっても毎日のように争いが起きている

和食がいいか、中華がいいか、カレーがいいか、イタリアンがいいか、ピザがいいのか、グラタンがいいのか、寿司がいいのか、ラーメンがいいのか。争いの原因はこう言えるかもしれない。

「今、自分が食べたいものが(自分にとって)一番美味しいに決まっている

ということだ。自分の信仰している神こそが最高だということが、食においても起きているのである。「松屋か、すきやか」「きのこの山か、タケノコの里か」「お好み焼きはオカズである」等々…そんな争いで世界は満ちているのである。

 

しかし争いもあれば、絆を結ぶこともある、それが宗教であり食である。

「結婚するなら、付き合うなら、食べ物の趣味が合う人が望ましい」

もちろんこの限りではないことはわかっている。筆者の個人的な心情からこれを伝えたいと思うのだ。当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれない。しかしこれがどれほど重要なのか。それを述べていこうと思う。

 

1.配偶者が作ってくれるごはんがおいしいであろう可能性が非常に高い。

2.外食に行った時の満足度が双方ともにとても高い。

3.食に対しての信仰心が高まる。

 

ある知り合いが「うちの嫁さんは寿司食わしておけば大丈夫」とかなり食をおろそかにした発言をしていたのだけれど、伝え聞いた話だが離婚したようだ。食べ物の恨みは怖いという。宗教戦争みたいなものだと考えると泥沼化することもあるかもしれない。食事において、どちらかが好きなものを食べるよりも、どちらも好きなものを食べるほうがお互いにとって気分がいいだろう。仲の良い夫婦のつもりだが夫婦喧嘩は避けられない。最近もテレビ台のことで喧嘩したばかりだ。仲直りには美味い食事、美味いケーキなどが欠かせない。お茶やコーヒーなども美味しいと、うれしい。こんな時、食べものの好みが違っていたら大変だ。自分にとって苦手なものが相手が好きでしょうがない、なんてことになったとき、その食事の場においてつらい思いが生じてしまう。一緒においしくご飯を食べられること、これは共同生活をしていくために一番大切なことといってもいいかもしれない。

 

「美味しいものを食べること≠空腹を満たすこと」これは似ているようで違うことというのは覚えて置いたらいいと思う。これは違う欲求だと僕は思っていて。空腹を満たしたいだけなら砂糖水を大量に飲むだけでも極端な話、空腹は満たされる。しかし、おいしいものを食べたい、という欲求は満たされることはない。三大欲などとよく言われるけれども、人間の欲、ニーズというのは多様化しているため、自分の本当の欲がなにか、というのは常に自問しても決してこまることはないのではないだろうか。

 

しかし、天国というものがあるとして、天国の食事がうまいことを祈る。

そういう死後の楽しみ、というのも悪くない。

 

※食と宗教が似ていることが面白く、色々書きましたが、決して特定の宗教を貶める意図はありません。それでも不快に思われる点などあればご指摘いただければ修正させていただきます。ご連絡ください。

 

 

書いた人:ゆる医者 

 

Twitterとマシュマロで人生相談やら医療相談をうけたり、たまに文章を書いたりします。

元内科医で現在精神科医として研鑽中。