ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

記事を徹夜で書いてたらお腹空いたので朝ごはんに学食のハヤシライスを食べようと思います。

本企画「ワカモノ思想」の主催兼岡山大学医学部二回生のmeganeデスク(岡山のメガネ)です。
参加していただいた皆さん、そしてこれを読んでいるあなたに感謝感激関裕美!!!ゆっくりしていってね
テーマは「食」ということで、僕はなんか医学生っぽいことを二本立てで書いてみようと思います。

〜一本目〜

現代生物学では、次の4条件を満たすものを生物と定めています。
  1. 自己と非自己を隔てる境界が存在する(細胞説)
  2. DNA・RNAを用いて自己複製を行う(遺伝)
  3. 生体内外の条件変化に関わらず生体の状態を一定に保つ(恒常性)
  4. 外部から様々な物質を取り込み、異化と同化を繰り返して物質の合成とエネルギー変換を行う(代謝
生物学的観点から言えば、「食べる」という行為はここでいう4つめの代謝のスタート地点であり、消化というエネルギー吸収のプロセスの第一歩でもあります。簡単ではあるが、グルコースを例に取り上げよう。

【デンプンの消化】

ちっちゃなHeartがキュッと詰め込まれた出来立てのあったかごはん(炭水化物)→デンプン(多糖)→グルコース(糖類)
【細胞内でのグルコースの分解】
グルコース ー(解糖系)→ピルビン酸→(クエン酸回路)→NADH(エネルギーを運んでくれるイイ奴)→(電子伝達系)→ATP(めっちゃすごいエネルギーを持った物質)
こうして作り出したATPは身体中いたるところで消費され、たんぱく質の働きのON/OFFや筋肉の伸縮、神経伝達などに深く関わっています。ATPマジ半端ねぇ。
(脚注:そこのお前!細胞1個に含まれるATPは10億個だぜ!)
 
それでは、このエネルギーはどこからやってくるのでしょうか。掘り下げてみましょう。ATPが持つ化学的エネルギーは、化学反応と食物連鎖をたどれば太陽が放出する光エネルギー、そして太陽の中心部における水素–ヘリウム核融合反応で発生する核エネルギーに由来します。
(脚注1:ちなみに宇宙にある元素のうち93パーセントは水素、6パーセントはヘリウムです。)
(脚注2:ちなみに宇宙にある物質は?という問いかけに人類が現状用意できる最大限の答えは、ダークエネルギーが68パーセント、ダークマターが27パーセント、原子が5パーセントということになります。世界は本当にわかってないことだらけですね。)
 
宇宙にあるすべての物質が星の生まれ変わりであることはよく知られたロマンチックな事実であります。宇宙を漂う水素ガスが凝縮して星になり、星が成長して再びガスを放出する、もしくは超新星爆発を起こすと同時に、硫黄、塩素、ナトリウム、鉄、金・銀・プラチナなど多くの元素が合成・拡散され、また新たな星の素となる時を待ちながら宇宙を漂う。私たちはこの非常に壮大なスケールの循環に組み込まれた宇宙の子といえるのです。一気に話がミクロからマクロに飛んでしまった。食べるという行為を通じて自分という一人の存在が世界に接続されるように私には思われます。私たちは毎日、食べることで宇宙とcommunicateしていると言っても過言ではないでしょう。というわけで、ぼっち学食は決して孤独ではないのだと信じて、私は今日も学食で鶏ポンを食べようと思います。
 

〜二本目〜

 
「食べる」の再解釈を試みる。人は生きるために熱量を外部から取り入れる。これが「食べる」ということであるならば、文章を「読む」ことも「食べる」と言えるのではないだろうか。
僕は小さい頃から乱読家で、そこら中にある文字という文字を読んでいた。ご飯を食べに行った時に調味料の表示とかメニューに目を通しているヤツいるでしょう。アレです。絵本はバムとケロに始まり、かいけつゾロリ、週間科学雑誌そーなんだ、怪盗ルパンに少年探偵団、10歳ごろからはミステリーにどハマりしてはやみねかおる先生の名探偵夢水清志郎シリーズを何度も読んだ。本やマンガを読みすぎて怒られることは基本的になく、唯一怒られたのは父親が買っていたデトロイトメタルシティを開いてゲラゲラ笑い転げていたときぐらいだ。1秒間に10回レイプと叫ぶシーンで笑わない人なんてこの世にいるのだろうか。いや、いない。(反語)
中学の時は毎月図書室に新刊が入るたびに、面白そうな本ならなんでも借りて読んでいた。鈍器のように分厚いライトノベル、甘酸っぱい恋愛小説、粘菌のグラビア写真集、和菓子の歴史、100の思考実験を扱った哲学書、地理的情報のデータブック、完全無農薬でりんごを育てるノンフィクションetc…。僕のtwitterのTLをみたことがある人ならわかると思うが、僕がシェアするウェブ記事のジャンルがバラバラなのはこの頃から変わってないようだ。
twitterやnoteやブログを通じて多くの文章に触れている中で、人の心を惹きつける文章には、ある法則が存在するように感じた。人の世界観を揺さぶり人生を変えるような、強いパワーを持つ文章であるためには、今にも潰れてしまいそうな苦悩や燃えたぎる復讐心、ただ一つのためなら己の全てを捧げても構わないという天啓にも似た使命感、例えばそういった書き手の「熱量」が不可欠だと感じる。この「熱量」は、表面的な文体の模倣や情報のコピペでは複製されない。限界オタクの限界極まったどうしようもない独白がバズる一方で、よくあるインフルエンサーもどきの文章がクソつまらなかったりするのは、彼らがトップインフルエンサーのフォーマットに乗っかっているだけで本質的な「熱量」が無だからなのでは?という仮説を僕は立てている。
とにかくこの世は生きるのにしんどいことに溢れている。束の間の休息と現実逃避のために本の世界に浸ることもあれば、困難な課題の解決のために先人の知恵を頼って論文を読みふけったり、先駆者の記録を読んでは経験知をありがたく享受することもある。20年弱という短い僕の人生(観)に影響を与えた文章でさえ、数えようと思っても数え切れない。そのうちのどれか一つでも欠けていたら今の僕はありえなかっただろう。私たちが生きる上で、言葉はなくてはならない道具の一つだ。
ここまでくれば勘のいい読者は冒頭の主張が理解できることだろう。
つまり、文章を「読む」という行為は、人が生きていくために、言葉に込められた書き手の「熱量」を取り入れる行為に他ならない。生存のために外部からエネルギーを取り入れるという構図において「食べる」と「読む」は同型なのだ。
この構図は「読む」ことに限らない。あくまでも言葉は意味を表現する道具の一つであり、表現したい事柄が音楽で表現されるべき場合もあれば、絵として描かれることで最もメッセージが伝わる場合もある。「読む」「聴く」「触る」は、「食べる」と概念の層構造において同じ階層に存在する、というところまで抽象化を進められるわけだ。考えてみると当たり前なことに思えるかもしれない。とどのつまり、生物は情報の入力・演算・出力を繰り返すタンパク質の構造物だ。感覚器官を通じて外界を認識し、生存に適した行動を選択して、運動器官を駆動させる。そこには何の風情もロマンも介在し得ない。ただ機能に従って化学反応と物理運動が連鎖するだけだ。しかし、そうだとしても、僕たちは意味を、熱量を求めて生きるのをやめられない。全生物とは言えないまでも、少なくとも人間には感情があるというのもまた事実。個人的な所感として、ロジックでは説明不可能な情緒の存在を受容するようになってから、なんとなく生きるのが楽しくなった。ソクラテスは「食べるために生きるのではない、生きるために食べるのだ」と言ったらしい。だが、どうせ生きることに必然的な意味なんてあるわけないので、毎日ちょっとした出来事に趣を見出してもぐもぐしながらたまには美味しいものも食べたいな、くらいに生きるハードルを低くしていきたいですね。