ワカモノ思想

ワカモノ達が一つのテーマについてあれこれ書きます

食べるに値する価値

企画参加にあたって

私は工学系の大学に進学しているBreitというものです。今回このような面白そうな企画に参加させていただき嬉しく思います。駄文ではございますが、お付き合いいただけたら幸いです。さて、テーマが「食」ですので、私なりに食について考えましたことを書いていきたいと思います。

1.本能

私は大学生になってからというもの、少食になりました。具体的には高校生活の一部として行っていた部活動をやめてから、ということになりますが、それ以来たくさん食べることができなくなったのです。加えて、お腹がいっぱいの時には気持ち悪くなりました。満腹感よりも空腹感の方が耐えられると思うほどに。本来そこまで少食ではない(中学のころには大盛牛丼の上にさらにマックのセットを食べることができていた)そんな私が、高校生活の終わりと共に急激に食べなくても良くなったのには、自分自身驚いています。まあ、夕食がおにぎり2つで足りてしまうというのは、食費が浮いてありがたいことではありますが。

食欲というのは、性欲、睡眠欲に並ぶ三大欲求の一つでありますが、私はこの食欲というものは最も欲という概念から遠ざかっているものではないかと考えています。現日本の文化では、1日に3食の食事をするというのが一般的です。さらに間食をする人もいるでしょう。ほかの欲はどうでしょうか、睡眠は1日に多くとも2度でしょうし、性欲の解消が食欲を満たす回数より多いとは思えません。(偏見かもしれませんね)欲の解消度合いは「回数」に比例するのかと問われれば、それは確かに違うといえないこともないかもしれませんが、実際自分自身の生活を振り返ってみてください。いつ、どんなときにもその欲を解消しやすいのは食欲なのではないでしょうか。社会に暮らす一般人ならば、昼間は仕事や学業に勤しまなければなりませんし、夜間にも残業や宿題、友達との約束などによって「いつでも」「思った時に」睡眠をするということは難しいでしょう。性欲についても同様です。どんなにきれいな女性、たくましい男性がいたとしても、白昼堂々自慰行為をするわけにもいきませんし、相手の合意なしに性交に及ぶわけにもいきません。「いつでも」「思った時に」実行はできないのです。しかし、食欲に関してはどうでしょうか。今の世の中では、「いつでも」「思った時に」食欲を満たすことは難しくないでしょう。毎朝の白米、通勤時間のグミ、昼休みのお弁当、休憩のクッキー、夜にはステーキ、深夜のお供にカップラーメン・・・少なくとも3大欲求の中では解消しやすいのが食欲なのです。それ故に、私はこの食欲というものは最も欲という概念から遠ざかっているものではないかと考えています。

私たちは、次の食事についてその有無ではなく内容について考えをめぐらすことができる。私たちは、明日自身が食事にありつけないとは微塵も考えない。どうして食欲が三大欲求に数えられるかと言えば、それらの欲求を満たすことで生命としての本質的な活動であるDNAの継承に繋がるからです。食事は、自身のDNAを保存している身体を保つため。睡眠は、身体及びそれを動かす脳を休憩させて生存確率を上げるため。性交は、他者とつがいとなってDNAを次世代へと継承するため。三大欲求というのは、種を保存するための警告音。私たちの中にある食欲のブザーは、飽食の時代によってマヒしているのではないでしょうか。

2.感情

さて、これまで本能的な観点から食について考えたことを吐露したわけですが、ここからは感情的な話をしたいと思います。私は食に関してほんの少しの嫌悪感を抱いています。それは食べるという行為は確実に他を殺す行為であるからです。もちろん、生きるという行為においては他を殺さずにはいられません。エネルギーを補給しなければ死んでしまいますから。先ほども申したように我々は食べるという行為をある種のルーチンワークの様に捉えている傾向があります。しかしながら、意識の中ではもはや重きを置かれなくなった「食事」という行為で摂取したその肉体は、かつて我々と同じ生命だったモノなのです。人間ほどの知性や思考は無いにせよ、あなたと同じ有機物によって形成されていた生命なのです。なので私は、食に関してはルーチンワーク化すべきではないと考えています。しかし現実はどうでしょう。嫌いだからという矮小な理由で料理を残し、食べてもいないものでも簡単に捨て、「いただきます」すら言わなくなっていませんか?命を摂取するということをしっかりと考えるべきです。毎日命を食いつぶしているという事実に目を向けるべきです。そして考えてください。それだけの命を潰した程の価値が、あなたにありますか?あれほどの数の命を消した意味を、あなた自身の人生に見いだせていますか?私の答えはNOです。だからこそ、私は食に関して嫌悪感を抱いているのです。私には、命を潰して生き続けるほどの価値は無い。しかしながら、私の本能は生きようとする。どうしようもなく他を刈り取ろうとする。ですので少しでも意味のある人生になるように、死に際に自分の価値が悟ることができるように、こうして発信しているわけです。

3.おわりに

少し脱線してしまいましたが、これにて私の記事は以上です。また機会がありましたら参加したいと思います。ではまた。